Vol.71 最後にもう一度だけ

心に寄り添うこと

–司馬遼太郎「21世紀に生きる君たちへ」より抜粋–


自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「やさしさ」
「おもいやり」
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
みな似たような言葉である。
これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。
根といっても、本能ではない。だから私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない。
その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない。

 道徳の根源は「互いの心に寄り添うこと」である。道徳に限らず自然界社会がそうでなければならない。
 現世は「相手の心に寄り添ってなくても、寄り添ったふうの行動をとること」が求められ、強要される。
 浦島太郎がいじめられている亀を助けたのはなぜですか?亀の身になってかわいそうだと思ったからでしょう。このとき太郎に「竜宮城に行けるぜ」「見返りが期待できるぜ」などといった邪念はないはずで、純粋に亀がかわいそうだったからに尽きる。これが道徳の根っこにあるべきものだ。これを現実の子ども世界に置きかえたとき、様相は変わる。 いじめられたり困っている子がいても、助ける子がどれだけいるだろうか。仮にいたとしても、「自分のプラス評価につながる」といった邪念が見て取れるケースは多いものだ。いじめられている子の心情を思うのではなく、自分の行く末を思っているわけだ。こうなると道徳の根から発生した行為ではなくなってしまう。ここで天の声がほのめかす。「偽りであろうと邪念があろうと、助ける行動に出たのは正しい行為で褒められるべきことだ。助けないよりかはよっぽどいい。」と。教師もそれをあるべき姿として容認し、やがて推奨してゆく。この呪縛にも似たものが、教科「道徳」はおろか、教育現場、一般社会の通念として覆いかぶさってきた。
 大人社会ならそれでも取捨選択の判断余地を個人が持つことができるかもしれない。しかし、子どものうちから偽りの道徳心を道徳として教唆されることは、本当の道徳心の芽吹きを阻害してゆくことにつながろう。小中学校で得られることのなかった純粋な精神が大人になって花開くことは難しいと思われる。

 「『21世紀に生きる君たちへ』司馬遼太郎先生」や「『君たちはどう生きるか』吉野源三郎先生」が言う道徳の根源を、日本人は説得力のない虚像へと移しかえようとでもしているのか。子どもたちに「振り返り」をさせて、体現していない根っこ(本質)に辿りつくのであればいいが、その可能性は皆無に等しい。

 「心に寄り添うこと」とあげたが、根幹・根源・初心を見つめることでもある。
 SDGs(2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」=17の持続可能な開発目標)は、その理念は「総合的な学習の時間」と同様、たいそう素晴らしいものであるが、現状はどうなのかを振り返ってみるといい。多くの生徒を含めた庶民の感覚としては、自分ができるであろう持続可能な目標のどれかを選んで行うことが、Goal(到達点)であると考えているようだ。企業も同じく、自社が取り組めるものを挙げ、「SDGsしてますよ」と言っているように感じる。Goals であるものが、Goal でよろしき風を吹かしている気がしてならない。ある都議は辞職せず党を離れ「SDGs東京」なる新派を立ち上げるという。ここまでくると「SDGs」は好感度UPの宣伝材料であって、おおもとの理念などありはしない。
 これが現世の日本の姿なのだろう。そんな中、グレタさんの活動もあり、日本でも若者がデモを行うなど、地球温暖化にむけての意識が高まっているのは、いいことである。「考えろ」と言いながら、「考えない子供」を産み出す仕組みの箍(たが)が外せれば、と思った次第である。
 箍をかけることに終始する世の中。「SDGs」も「道徳」も、国民をしばる箍として変化(へんげ)しないことを望む。
  システム > 人の想い・心 ‥‥

皆さん、おつかれ様でした。   2021.11.10

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