具現化とは「考えや理想などを実際の形やものにして実現すること」という意味ですが、わかりやすく言えば、「考えや思いを理解できる具体的なものとして表現すること」ということです。ここで大事になるのが、自分自身のフィルターを通して考え、理解するという過程なのです。我々をとりまく「学び」というものが、具現的であればよいのですが、現実は残念なことに抽象化していくことこそが「学び」の道だととらえているふしがあります。たとえ、人の心のひだにささらなくとも、相手にある意味機械的にでも概要が伝えられればよいとする方向性です。
似たようなものに「客観的」という言葉があります。たしかに、物事を客観的に見る姿勢は大切です。しかし、現実は、客観的であることを推奨し、強要するにまでなっていることなのです。まるで、主観をとなえることが、わがままだとでもいうように。
つまり、「自分」というものを外した世界で生きることが、トレンドとなってしまったようです。自分の主観と接することなく構築された理解というのは、コンクリートやアスファルトやプラスチックに覆われた都会の街のようで、機械的で冷たく感じられませんか。それは、合理的であるのかもしれませんが、自分の実地での行動を伴わない、体現のないものであることにほかなりません。
誰もがあたりまえのこととして見過ごしてしまう既成の理解の中にこそ、きらめく発見がかくれているものなのです。おのれの経験から導かれた何かおかしいぞ、しっくりこないぞという疑問や謎が自分の理解を積むための糧となるわけです。自分の感性というフィルターを通して感じえたことや思いついたこと(主観と照らしたこと)とは、本当の意味での理解に近づく必要不可欠なものなのです。
具現化するは我にあり。間違うことをおそれず叫びましょう。既成の理論にとらわれず、自分というものをとおしてみつめ、自分が納得できる解、つまり真実に迫ることがいつの時代においても大切であると。
謎を謎と感じる心
ほのぼの研究室
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≪…具現化するは我にあり。間違うことをおそれず叫びましょう。既成の理論にとらわれず、自分というものをとおしてみつめ、自分が納得できる解、…≫を、数の言葉ヒフミヨ(1234)が平面(2次元)からの送りモノとして眺めて、数学の基となる自然数に出逢える絵本ミッケ・・・
久方の光のどけきながしかく静心なく四角なるらむ
( もろはのつるぎ (有田川町ウエブライブラリー) )
「言語の本質」の[オノマトペ]から[言葉の量化]と[数の言葉の量化]の[1]の存在量化(∃)や[分化](分節)と[融合](多・一)に出逢いたいなぁ~
令和6年4月に開設の岡潔数学体験館で、「数のヴィジョン」や「コンコン物語」などの自然数のキュレーション的な催しがあるといいなぁ~
コメントありがとうございます、わたしは天文や数学には詳しくないのですが、かつて土星の輪を卒業制作かなんかの大垂れ幕として生徒に描かせる際、数学の先生に楕円ってどう書くのと聞いたことがありまして、数学の先生曰く、中心点2点ををとり、2点を囲み回すように紐をある程度余裕をもって結び、鉛筆で紐を張りながら描いていくとできる といわれ楕円を書いたことがありました。たしかに楕円は書けました。その楕円は規則性のあ上下上下左右対称など)ものでした。天文でいうところの楕円とは、正円以外のものをいうのでしょうが、 ケプラーの第1法則(楕円軌道の法則)を図解するネット記事や書物の図解も規則性のあるものを描いています。惑星は太陽という1点を中心とする楕円軌道なのですから、厳密には近日点を底にして、たまごを立てたような外郭を描くのではないかなと思ってしまいます。また、近日点を過ぎたあとは少し軌道が膨れていくのではないかなとも思います。まるでスピログラフで描く模様のように。これを歳差というのかは知りませんが。
多くの人が楕円といえば、上下左右対称を想像してしまうでしょう。言葉もおそらく同じで、少しずつブレて(変化して)いくものなのでしょう。そこが言葉のおもしろいところでもあるのですが、規則性、安全性の高いものへと流し込む現代社会の思考は、つまらないなぁとおもってしまいます。想像して、創造することを忘れている気がしてならんのです。間違っているかもしれないけれど、自分が納得できる解を自分で探り当てる気概があってほしいです。「竹取物語」の冒頭部にある「野山にまじりて」はどの教科書や辞書を見ても、判で押したように「野や山に分け入って」と訳しています。古語辞典だって、用例として竹取物語のこの部分を引いて、ここは、「分け入って」と訳すのだといわんばかりです。なんで、野や山と一体化(溶け込んで)という意味合いで訳すものがないのか不思議でなりません。そのほうが、翁の人柄(キャラ)がイメージできるでしょうに。確かに翁は草をかきかけて竹林に入っていったんでしょうけど。イメージのベールをとりのぞかないでほしいという思いが私はつよいのです。そのイメージを描けるところが人間性であり、文化を築く礎となると信じています。