Vol.4 情操教育と道徳教育

情操教育と道徳教育

 道徳の教科化が話題となっている。教育に携わる自分にとっては、悩ましくもある事柄である。何よりも学校現場がかたくなな世界へと囚われていく恐れを感じてならない。
 情操教育のある意味、集約すべきひとつの到達点にあると思われる「道徳」が、教科として分化し、道徳というある種の定義・理念をもって生徒に教えられることとなるのだろう。

情操教育について、Wikipedia では、こう記されている。

情操教育(じょうそうきょういく)とは、感情や情緒を育み、創造的で、個性的な心の働きを豊かにするための教育、および道徳的な意識や価値観を養うことを目的とした教育の総称。(ヘルバルト学派が用い始めた語)

情操とは、「高い精神活動に伴って起こる感情、情緒より知的で安定感があり、持続できる情緒的態度」のことを指す。この仮定に基づく限り、情操教育は先述の情緒的態度を育む教育活動を指すといえる。

具体的には、小中学校の教科における道徳、図工(美術)、音楽、保健体育などを指し、暗記偏重の教育とされがちな数学、理科、社会などとは対置される。総合的な学習の時間での福祉体験や、ボランティア、地域社会の中での勤労体験学習(体験学習)も、この一環として理解されることが多い。また、国語については、文学作品の鑑賞などにおいて、情操教育の性格を持つものとみなされる傾向がある。

しかし、「情操教育」という用語は学校教育でしばしば用いられるものの、明確な定義が難しいとする見解もある。

 情緒を育み、それを自分自身の中で体現することもないまま、頭ごなしに「こう考えるのが正しい」と価値観を強制するかのような道徳の教科化やその評価。ものの良さや忌まわしさを感ずる感性を養う間もなく封ずるかのごとく傘をかぶせてしまう。
 「あはれ」という古語は、しばし「しみじみとした趣がある」と訳される。生徒からすれば、「趣」という言葉だけでも実感はわかず、「しみじみと」が加えられて、なお実感から遠のくであろう。あげく、「しみじみとした趣がある」と辞書等に書かれている意味を覚えるのみとなる。つまり、「あはれ」という状況や情景を体現することなく、言葉を解説されたある意味として理解したと錯覚しているだけである。言葉に限らず多くのことがこれとリンクする。起案を提出させて○○を△△させる学校現場。起案の承認というフィルターは、初めからある方向へ外れることを抑制させる効果はあるだろうが、教員個人の自由な発想や計画を反映させることを拒ませてしまう。末は上に従い、考えない教員があふれかえる。お上にとっては従順であって都合よく、何かあったとしても教員の能力のなさを嘆く形で、教員の資質の向上やらと、さらにパワハラまがいの圧力を加え、自分たちに非が及ばぬように繕うだろう。研修と称されるものも、ほとんどが入口も一つなうえに出口(結果)も予め一つに決まっている。個人が考える余地などない。あえて考える余地をと言うなれば、「出口(結果)にみあうよううまくお上の言うことを忖度して、工夫せよ。」となる。
 お上は「よきにはからえ(うまい具合に忖度せよ)」と暗示しているとしか思えない。いじめ問題、道徳教育問題等、無理難題を投げておいて、「どうにかしなさい! ちゃんとできないとあなたがたの責任ですよ」という強迫観念(パワハラ)に教員は常にさらされ、つきまとわれるのである。ブラック企業の最先端ともいえよう。公僕であるがゆえにかせをかけやすいのであろう。多少無理をさせたとしても、なんとかすべく奴らは働くと……。
 その仕組みを今度は、道徳の教科化という形で、教師から生徒へと襲いかかさせる。教師が考えない生徒を次々に生み出してしまわないか心配である。
 はじめから決まっている価値観を肯定させるべく、教師にさえ、考えさせない(考える余裕さえ与えない)昨今の教育現場。「君たちはどう生きるか 吉野源三郎著(漫画版)」が200万部を超える大ベストセラーとなる中、そういった世相の波さえ意にかえさず、強引なまでに具現化に見せかけた抽象化された道徳教育。民主国家と言いながらの専制君主国家の様相と感覚的にリンクしてしまう。「方法論」があってこその実践という凝り固まった一方的な考え方。その方法(メソッド)を執る前には必ず「感情」や「情緒」や「空気(雰囲気)」といった情操を担う根幹があるわけで、そんなことはさておいて、決まりきったメソッドを当然のごとく投げかけてくる。「こうなったらいいよなぁ」「こんな感じなら充足感を得られそうだ」とか「こんな感じの雰囲気が生じてくれば、皆が幸福を感じるかもしれないなぁ」という感性・情緒が、それを達成するべきメソッドを生み出すのであって、現実の教師たちは、問題に直面しても解決に向けたメソッドを構築する舞台にすら立てない。何か起これば「A校ではこうした」から「○○にこう書いてある」からという、実体・実感のないメソッドをとるしかないほど煩雑に入り組んだキャパシティオーバーな激務の中に置かれている。
 教師の情操が阻害されている今、子供たちに豊かな情操を育むことができようか。学習であれば、その楽しさを、生活であれば、その生きがいを、小さな実体験の中で失敗や成功を経験させ、実体験から得られたことを考慮してメソッドを自ら生み出すことが望まれよう。
 30年弱前、「ちょっと大変だけどここを乗り切れば明るい未来が見えてくはず」と騙された教育現場。総合的な学習の時間に至っては「教師が好きなように授業を構築できるのだから」と騙された教育現場。「課題を見つけ課題を解決するために何をどうするか」という第一の理念が子供たちの中に浸透するべく前に消え去り、教師の姿勢としても定着しないまま(教師にその理念が定着しては困るのだろうが)混沌としたところに投げ捨てられている。
 教師も子供も同じ空間を有す同時代に生きる仲間として、喜びや楽しみを体感しつつ、共に前向きに何かを生み出す存在でありたいものだ。
 この時勢に竹を割ったような理念は存在しないのだろう。「なるほど!」という言葉が死語となるやもしれない。子供たちからすれば、大人がどれほどの「なるほど」を与えてくれただろうか。発見からはじまる驚嘆・感動。教師・生徒、相互にそれが息づく現場が教師にとっても子供にとっても、生きがい・やりがい・楽しみを感じえる理想的な環境なのではないだろうか。                            2018.4.26

白髪レガシーVol.4 PDF