Vol.48 懲罰と教育        2020.7.31

 世の中は規制と懲罰を高める方向に動いている。
 それによって違反や犯罪が減少するのなら、それも致し方ないことだし、平和な生活を産み出すなら、かえっていいことではないか。と思われている傾向を感じてならない。
 フィリピンではマスクをしないで街を歩いていると、罰金を払うということだ。しかも2度目は倍額になるようで、3度目以降は4倍になるらしい。
 日本でも、犯罪によっては、刑を重くする方向性で今日まで来ている。刑を重くすることで、罪を犯すことを躊躇する(とどまらせる)ようにしているかに見える。

 我々教職の世界も同様で、昔ならば、厳重注意・訓告にあたる行為が、戒告・懲戒免職にもなっているのです。学期の終わりには、職務研修とかで、事例があげられますよね。「これをやったら、こうなりますよ!ぜったいにやらないように!」というように。処罰の重さにおののいて、事を起こさせないようにさせる手段なのでしょう。大きく展開すると香港のような状態とも言えます。大人であれば、ある程度は確かに必要悪として処罰を強めるのもやむなしと我慢することもできますが、教育というカテゴリーにも浸食しているのは否めません。いつしか子供に対して「そんなことばかりしてると〇〇だぞ」といった懲戒をにおわす言い方をすることはありませんか。懲罰を振りかざすことなく、子供の心の中にずるいこと、悪いことをしようとする気持ちを起こさせないように耕すのが学校教育の真の役目ではないでしょうか。大人と同じ、懲罰によって踏みとどまらせる犯罪の構造を子供に持ち込んでも、それが教育とはいえないのは一目瞭然ではないでしょうか。犯罪を犯さない心をじっくりと育ませることが重要なのでしょう。パブロフの犬のごとく懲罰に条件反射してなさぬのではなく、子供自身の中から産まれる「より良くするには」と考える機会と力を与える土台を作ることが大事だと思うのです。紋切り型の大人の手口で子供の世界にそれを浸透させても今の大人と変わらぬか、それ以上の石頭となってしまうに違いありません。やわらかにはぐくみ実感のある幸福への道筋を決して消してはならないと思います。
 コロナの影響もあり、更に紋切り型の世の中へと移行するものと思われます。風物や文化が再生するか心配です。無駄なことはしない。得しないことには目もむけない。自分が判断しない。責任を負わないことを第一義とする。なんとも味気ない隙間だらけの未来が浮かんできます。
 「口に出して言わなきゃ解らないから、ちゃんと言いましょう。」と言われる社会。たしかに言えるようにすることは重要ですが、言わずともそれを理解する感性を育てることがもっと大切なことで、急務であると思います。全てを言葉にして説明しなければならないならば、分厚い取説と同じで、頭に入ってこない状況となるでしょう。空気を感じ、実感をもって対処する感覚や思考を慌てずじっくりとはぐくむところに、関わりの中に見出す良きもの(文化や風物や味わい)があると信じたいのです。法律や決まりでしか己を律することができない精神ばかりが膨張していると言えるでしょう。自分という規準ではない、どこからかおろされた規準がないと落ち着かないムードとも言えるます。自分が善しと思って判断・行動したりすると、責任は自分に回ってきます。だから、誰かが判断してくれるのを待つという規準を求めてしまうのです。悪循環へと踏み込んでいる現代から豊かな未来が見えない不安は誰もが感じているでしょう。感じる心があるうちに教育はそこを掘り下げる努力をしなければなりません。

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