本質を見ずしてなびく風見鶏

(マウントをとることに終始する社会に抗う)

 政治家と統一教会の関係が取り沙汰されているが、ぶっちゃけその本質は、お互いが相手を利用して利益を求めるwin-win(ウィンウィン)で繋がっているだけということだ。政治家からすれば選挙で勝つため。宗教団体からすれば、信者獲得・資金拡充、政界への勢力浸透、団体の権威を高めるためとなる。理想や信念、ポリシーなんぞは欠片も見当たらないのが現代なのだ。お互いの利益を生むところだけに集い、Win-Win であることを着地点にしている。お互いを理解しあうことはなく、お互いが利用しあう関係だけで結ばれているのだ。
 森友学園問題にしても、開設予定の小学校の名誉校長に安倍晋三元内閣総理大臣の妻・安倍昭恵夫人が就任していたが、森友学園(籠池氏)側からすれば、昭恵夫人というよりか安倍首相の名を借りたかったにちがいないし、お墨付き狙いと言えよう。安倍夫妻が鑑定評価の14%(1億3,400万円)にあたる土地売買契約に関与したかは定かではないが、売却側の近畿財務局に何らかの忖度がはたらいたとは想像できる。
 政治家と宗教団体および教育関係機関との疑惑。どちらも一般庶民のマインドをそれとなく既成事実にみせて牛耳る目的として利用される。真相は何かなど問題ではないのだ。ただ確約という名の称号がほしいだけなのである。なにかにつけてうやむやとなる世を見て思うのは、真相・真実・理想・信念・信条、つまり本質とはどれだけかけ離れたところで人ははしゃいでいるかということだ。はしゃぎ方もよくない。情況を見て、勝組にいると認識できれば、弱者を徹底的にたたく。分が悪くなれば、煙に巻くか逃げる。一般庶民とて、どちらに乗っかった方が得策かとはじき、主流となるだろう方の肩をもつ=マウントをとる。このいつもどおりの陳腐で変わらぬレベルのステージで参戦するのが今のトレンドなのだ。
 「よくわからないけど、お互いがWin-Winならいいんだ。」とか、「相手より優位にたてばいいんだ。」というマインドが主流になりつつある今、抗うものはその風潮だ。

 リスペクトすべきものをディスリスペクトしていくかに見え、本質の素晴らしき面をぼかして進み、残るものは相手よりは優位にたてたよなというしょうもない自己満足。リスペクトするレベルを無理に高く置いて、わからぬものを生み出してはいまいか。リスペクトすべきレベルは自分より低くあるものと認識した方がいい。地球や自然、己を取り巻くものに対して敬意を払う本質的な思いがあれば、地球温暖化からくる異常気象やら紛争やら食糧難やらという現代を創り出しはしなかったと思う。誰もが自分自身をリスペクトされる対象にあらんとしているところに問題がある。ないがしろにされた自然や低きに置かれた民が牙をむくのもわかる気がするだろう。人類が本気で抗うものは、本質とかけ離れたところに答えを見出さんとしてきたマインドにあるのだ。
2022.8.7

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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