ぶれてもいいけどぶれないで

 針路を変更しないと世間からバッシングをうけ取り残される不安から体(てい)を成す方向へと舵をきる。
 人間だからぶれることはあって当然であるし、ぶれること自体はそれについて悩むという思考を発出するのだからとても重要な営みではあるわけだ。しかし、「体を成す」という無難そうな顔をしていながら既に決まりきったところへと落とし込む不可逆的な構造は、さらなる闇へと誘わんとしていまいか。
 何事につけ携わる者があって成り立つシステム。検査会場や病院で被験者や患者に充てるスタッフが足りない。病床を増やしても従事するスタッフが足りない。店を開いたが、スタッフがいない。マンションの建設は始まったが、建設に従事するスタッフが足りない。システムとしての水準は高くなれど、それを扱う従事者がいなければ宝の持ち腐れとなる。宝であることを維持するために新たなシステムで乗り切ろうとする。でもそのシステムに充てられる人員もままならないばかりか市場も盛り上がらずということを繰り返す。マンパワーが足りないことは分かっていながら最終的にはそのマンパワーが欠かせないシステムを次から次へと産み出していく。システムばかりが膨張していくのである。
 システムを見ることはあっても、そこに生活する人や自然の姿は見ていないのである。生活する実態を想像してシステムを構築してほしいものである。現代をながむれば行きつかないシステムのあとに残るのは自己責任。システムがうまく機能しない場合は、自己責任に落とし込む算段だと言える。
 民主主義の危機。ロシア・中国はもとより、香港、ミャンマー、スリランカ、アメリカ、そして日本。格差社会の結末は民主主義なるものの在り方や捉え方の格差に尽きる。アメリカはネイティブを排除する形で建てた負い目、奴隷制度や人種差別があった負い目があるたか、旗振り役であるにもかかわらず民主主義なるものへの一定の憂慮すべきところはあるだろう。日本は間接民主主義(代表制民主制)を民主主義の根幹と強く捉えている節がある。直接民主主義などという意識は鼻から無いのだ。ある意味日本は直接民主制意識の最も低い民主主義を名乗る国かもしれない。
 企業も官庁もほとんどが余裕を持って運営する余裕はないのである。ぎりぎりの人材で賄っているのが現状だ。赤字から逃れ人件費を抑えるためにリストラを行う。その際、もともとぎりぎりの状態でやっていたわけで、マンパワーが減っても業務内容が変わらないなら当然残った社員にしわ寄せがくる。医療現場で医師や看護師をはじめとするスタッフがコロナに感染したり、濃厚接触者になったりして業務に従事できなくなると、病床はあってもそれに充てられる人員が不足するためまわらなくなってしまう。とてつもなく忙しいぎりぎりの状態で、精一杯頑張って利潤をあげることを迫られているのがこの社会において常態化してしまった。そして最後の最後には自己責任でと切り捨てられる。
 コロナ克服と経済を回すことを天秤にかけ、なんとかつりあいそうなところを捜して提示していくばかりでは、二兎を追うもの一兎も得ずとなるだけではないのか。
 何に傾倒してしまったのが原因か。「経済的に発展することこそが人間の幸福である」としてしまったことにほかならないではないか。確かに金持ちになりたいと願う気持ちはわかる。経済力によってほしいものを揃えられるからだ。しかし、そのときその人は幸福だと感じるかは微妙だ。幸福は精神性を伴うものである。よって、物(金品)によって支えられても幸福を感じないことがあるのも多いに考えられる。
 実感としての幸福感を求める軸はぶれないようにしよう。それを認知できるまでにぶれることは必要だけど。自然界もそう望んでいるはずだから。
 2022.7.28

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です