Vol.35 身の丈に合わせて

 萩生田文部科学大臣の「自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえれば」発現で物議を醸すこととなった大学入試に関わる英語の民間試験が、実施延期となった。

 「おもねる」形で進んできた社会の構図がまた浮き彫りになったと感じている。

 教師になったころ業者テストというものが各中学校で行われており、進路指導に活用されていた。しかし、偏差値輪切りの進学指導であるとの批判を受け、「業者テスト」や「偏差値」というものは追放される形となった。形としては、中学校が非難される形であったと記憶している。我々は自らが「子供たちを偏差値をもって輪切りにして進学指導をしている(進学校を決めている・割り振っている)といった認識は全くない。
 私立高校の多くが推薦の基準として「偏差値」を求めたのは事実であり、その偏差値は中学校で行っていた業者テストからはじき出されたものであったわけだ。高校が偏差値を推薦(単願・併願を含む)の基準として出してくる以上、業者テストを行わない選択肢は中学校にはなかったと言っていいだろう。我々教師としては、この生徒が公立高校入試で当日どれくらいの得点能力があるのかを知る上では、進学指導に役立つという認識は確実にもっていた。もちろん、公立高校の受験に関して、高校側から「偏差値」そのものが要求されたり、中学校側から提示したりしたことなどありはしない。それでも世間は「中学校教師が生徒の進学校を偏差値で輪切りにして決めている」と思い込んでいた。やがて、業者テストは追放される形となる。一方教師は、公立入試における当日取れるであろう得点を算出する手段を失ってしまった。「業者テストがなくたって、プロなんだから、教えている中で、どれくらいの実力がその生徒にあるかわかるだろ。」と、揶揄される有様だった。我々は進学指導のプロではない。模試や業者のテストがあってこそ、ある程度正確なその生徒の得点能力を知ることができるのだ。現在、公けに業者テストは行なわないが、「教科テスト」や「学力テスト」と名を変えて行っている。三年次に2・3回行うテストがそれだ。その時の生徒の得点能力を知る目安は「偏差値(現在は標準点という)」となる。業者のはじき出した偏差値からひもといて当日の得点能力を計るのである。「結局、元に戻ってんじゃん!」とはなるが、偏差値で輪切りにしてなどいないのは一目瞭然であろう。

 あれだけ、教員の業者との癒着が懸念されるとして追放した業者テスト。おりしも到達度評価(絶対評価)となり、全体の中における自分のいる階層が見えづらくなる(高校や業者からすれば、内申なるものは生徒の能力を測れるものではなくなった)。時は流れて、公立中学でも文科省主催の全国テストが行われるようにはなるが、生徒のその教科の能力を図るものでないのは明らかだ。つまり進学指導に使えるような代物ではないのである。
 そうした経緯の中で、生き抜いてきたものがある。それが「英検」をはじめとする各種検定試験である。現在でも、私立高校の推薦基準として用いられたり、都立校の「自己PR」や「調査書」に記載させたりするものである。英検・漢検などは、中学校を会場として実施してもいた。業者の試験が半ば公認されているかと見える状況である。英語は指導要領の改訂に絡み、小学校で教科として教えられることもありその必死さがうかがえる。グローバル化を見据え「コミュニケーション能力」は確かに必要ではある。しかし、その上っ面のところばかりに特化していった場合、やがて、塾や業者側から「学校はちゃんと教えない」と烙印をおされ、外部からの圧力をさらに受ける結果となっていくように思えてならない。

 学校教育を外部委託的に売り渡さんとしているのは、教師ではなく、お偉方たちなのである。
 大臣の「身の丈」発言。「生徒さんの置かれている環境に応じて」と善意に解釈することもできはするが、そもそも彼らには、格差社会を是正する気持ちなどありはしないのだから、ひとつまみの優秀な人物を産み出す環境を作り、下々は見捨てていけばいいという仕組みになっている。「できる奴は、なんとしたって受けるであろうし、受けづらい奴のなかに優秀な者がいる確率は低いのだから、構うことはない。」という口には出さぬ本音が聞こえてきそうだ。所詮、政治家にしろ官僚にしろエリートとして生きてきた人がほとんどであるから、下々のことを顧みる姿勢は薄い。「より高めるには」といったベクトルでしかものを考えないのである。我々教員だって、ある程度の教養はあるわけだし、「できる子をより高めるために」といったベクトルを示すことはあるはずだ。しかし、その中で確実に忘れ去られていく「できのよくない子たち」がいるのである。教育の目指す方向が「わかる授業を」とか「コミュニケーションがとれる程度の会話できる英語」といった下方向と、「難関とされる検定や難問試験を突破するための知識・技量」といった上方向とが混在している。ベクトルの向きの全く違うものを、教師には整合性のある矛盾しない形でやれとハラスメントする。この見下されかたは半端なく思う。

 長いものにはまかれろ 潮流に逆らって泳ぐなかれ と つぶやく声が聞こえる。「身の丈に合わせて」には、教師にむけて「どうせお前らアホだから無理だろうけど、とにかくあがけや!」という無責任なおごった言葉に聞こえてしまうのは、私だけなのか? 政財界をみれば業者に寄り添い「おもねる」形でしかことを運べず、結果上方志向を繰り返し、理想はか細い灯として消えかける。         2019.11.5

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