簡易に安易にすりかえ流れる社会

 「けりをつける」とよく言われるが、けりのつけ方がよろしくない。
 表出した問題というのは合併症であることが多く、一つを解決しても治癒できないステージに既に陥っていることがほとんどなのだ。しかし社会はおきまりの方策に終始し、どうであろうと解決に向かったと結論付けてしまう。
 一般人は緻密に組み上げられた既定プラン上を生活しているわけではない。ある意味流動的な環境の中でささやかな情緒と隣接しながら日々を送っている。
 しかし社会は一般人の都合など考慮しやしない。そうであるならばこうする。決まり切ったマニュアル通りの手段を返すだけなのだ。「そうなんだけど、そうじゃないんだ。」と言っても同じ返答を繰り返してくる。一般人の情況をわかろうとする姿勢はみじんもない。格差社会はここまで来てしまった。
 「法の支配に基づく国際秩序を守ることの重要性」をエジプト訪問中の岸田総理はシシ大統領との間で一致したと説いた。ウクライナやスーダンの情勢を鑑みたものと捉えられるが、それだけなのだろうか。「法の支配」という重い言葉をロシアがのむはずもないことを前提にして言っている気がする。仮にロシア軍撤退など、うまく言った場合には、法の大切さをさらに説いていくだろう。
 法の支配とは権力者にとっては、「国の支配」に等しいのだ。その点ではロシアも同じである。法に関与できる者からすれば、法の支配は国の支配と同様なのである。「国家のために法がある。」と考える者が民主主義やら法治国家やらを隠れ蓑にして「法の支配」を唱えたとしたら大変怖いことだ。このところの我が国の現状から見ると、一般人を救うためより、国家や行政が一般人を縛るために流布される傾向が高い。ウクライナにしても国家総動員令を出しているわけだし、この世は法というものがどれだけ危ういものであるかを知るべきだ。選挙となれば、「この事柄には触れんようにしよう。この件で攻めよう。」と画策し、本当の意味での一般人の付託に応えることはない。目は己を含めた上を向いていて、一般人の情況を見て見ぬふりで乗り切ろうとしているかに見える。
 けりがつかない現状はよくわかる。だからこそ、人を見て、人の置かれている現状を理解し、施策を講じてほしいものだ。耳を傾けない、歯牙にもかけない姿勢が、人の疎外感を生み、事件も増えている気がしてならない。「国家の安全はすなわち国民の安全であり、国家の繁栄は国民の繁栄である。」という迷信は捨て去るべきだと思う。 2023.5.1

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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