人間の立場から不当な公式に反抗を試みた

 -人間の立場から不当な公式に反抗を試みた-

 この言葉が脳裏に取り付いて半世紀にわたり離れぬまま世間という社会に向き合わせてくれた。
 この言葉は大東亜戦争開戦間近の1941年11月20日から22日にかけて3日間にわたり都新聞に掲載された「ラムネ氏のこと」と題された坂口安吾の文章の一部である。ジャンルとしては、随筆に見せかけた社会批評文といったところであろう。
 権力の強制によってその思想を放棄することを主題としたものを書くことを強要された文学者を「転向文学者」というが、「ラムネ氏のこと」の中に文人仲間の一人として島木健作が登場する。彼は転向文学の一人として中野重治とともによくあげられる作家である。冒頭にあたる「上」では、小林秀雄、島木健作とともに三好達治の家で釣った鮎を肴にラムネの発明者の話に及ぶ。錚々たる顔ぶれの連中が他愛ないラムネの話で激論を交わす何とも平和そうな書き出しなのである。ラムネの話からふぐの話となり、「中」では、茸の話となる。「下」では、表向きには書かれてはいないがキリシタン禁制の件をにおわせる話となり、「人間の立場から不当な公式に反抗を試みた文学」という文言へと続くのである。
 大正の終わり、国体護持の名目のもと反国家政治運動取締りを謀る治安維持法が制定され、昭和に入ると思想の封じ込めが歴然となって、権力の撒く邪悪な空気によって民の自由は拘束された。思想信条の自由がなかった戦前・戦中。法は権力を擁護するものとして存在していた。安吾の言う「不当な公式」としてである。
 戦後、その反省をうけ、法は権力者の暴走を防ぐものとして生まれ変わったかに見えた。しかし、権力はまたしても法を己を守護するものとして利用し始める。旧態依然の体質を復興するかのように着々とそのすそのを拡げていくのである。もちろん反発する者もいた。安保闘争、学生運動、全共闘。一般庶民の立ち位置として、そのイデオロギーに関知しない多くの者は「迷惑な奴ら」と捉えただろう。ただ、そこに「自由と開放」を求めて闘った者がいたのは事実だ。昭和40年代に学生運動も下火になるころ、急進的な改革路線ではない若者の間でも自由を求める空気は存在した。「戦争を知らない子供たち」であり「翼をください」といったフォークソングに共感した姿にそれは見て取れる。イデオロギーがあるなしに関わらず、事の大小に関わらず、何時の時代でも「自由」を求める気運はあったのだと思う。
 現在では、放送法をめぐる問題が再発している。知る権利・報道の自由に制約を与えん論議を興している。
 とにかくポイントとなるのは、弱者にあたる者の声をどう取り扱おうとしているかだ。弱者であるがゆえ、ひねり潰してしまえばいいとする志向は現在においても確実に残っている。法という揺るがぬものからの縛りをはじめとして、モラルからの縛りを受けて、「自由」を脅かされている現代があるといえる。
 ただし、人間の立場から不当な公式に反抗を試みる意識は薄くなっている。関わらないことで、考えないことで、成り立つ幸福があると錯覚している。今こそ、教育は、強要ではなく、自分で考え自分の意見を持たせることをまやかしではなく本気で考えて行く時に来ている。「学び」という自由を失う前に。
 オームや統一教会であがった洗脳やらマインドコントロール。北朝鮮、中国、ロシアをはじめとする多くの国々が、国家による洗脳をしている。報道の自由が疎外されているところから見れば一目瞭然だ。一方、日本は大丈夫だ。とは言えない。「自由」は、庶民が育てなければならない。

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です