お祭りの高揚感

 お祭り好きの人類は、その高揚感から醒めることを嫌う。いわゆるイベントづけの日々を望んでいるのだ。昨今の動向から見ると、イベントのないことに不安を懐く状態にすでになっていると言える。
 イベントと言えば、五輪やワールドカップ・世界大会を始め、音楽フェスやフードフェス、カルチャーフェスなど、大規模なものを連想するが、わたくし世代でいうならば、盆踊りや花火大会、夏祭り。若い世代でいうならば、ハロウィンやコミケ。身近なところでは、フリーマーケットなどもこのイベントに含まれよう。多くのイベントが、コンサートやライブといった単一の催しから、複合性のあるフェス(フェスティバル=祭り)へと変貌しているように見える。
 フェスの特徴を考えてみよう。花火はある程度離れた場所からでも見ることは可能だが、盆祭り(盆踊り)など、その会場となる川岸や神社の境内に並ぶ露店が、いい言い方をするなら祭りの高揚感を高めているわけで、悪い言い方をすれば、あやかり商法(便乗商法)に支えられていると言える。花火があってこそ盆祭りがあってこその露店であるため、イベントが中止となると、便乗業者はさぞかしつらいことだろう。海水浴場の海の家や観光で成り立つ宿舎や仲介業者や土産物屋も天候や疾病によって受ける影響は甚大であるのも容易く想像できる。
 さて、フェスと化した我々を取り巻く諸々が鳴らす警鐘とは何か。オリンピックが解り易いだろう。競技大会としての本道はもちろん存在するが、現代のオリンピックは、これを取り巻く便乗商法化、いわゆる商業主義になってしまった。競技大会としての価値より商業的な価値の方が勝る結果となっている。確かにチケットを購入して競技を観戦するだけでは済むものではなく飲食店や宿泊施設があってしかるべきではある。しかし、やみくもにオリンピックにあやかって儲けようとする輩が増幅するとオリンピック競技そのものはお題目化し細ってしまう。商用化としての価値が競技の価値をはるかに上回ってしまうのだ。
 イベントで人を釣る。それが当たり前の世の中。お題目としてのイベント名で利益を得ようとする輩とそのおこぼれにむさぼる輩で創り上げたイベントに金を落とす庶民。アスリートファーストと銘打った2020東京五輪はまったくもってアスリートファーストではない末路をたどる。競技する者がリスペクトされる舞台がオリンピックであってほしいし、それを何のフィルターも付けずに観戦できる視聴者であることが望ましい。オリンピックは本来の意義を上回るほどの別の意義を纏ってしまったと言えよう。でもそれがオリンピックというものだと多くの人が思っている現在がある。確かに経済抜きにして様々のイベントを考えられる状態に戻れはしないだろうし、今後もやはりこうやって商業的価値の部分を膨らませつつ進んでしまうだろう。祭りの会場に露店がない状態が、逆に違和感と感じてしまうがごとく。それでも考えなければならない。本道にあるもの意義を。オリンピックという競技会が無ければ、取り巻きのあやかり群団は海の藻屑となるものばかりなのだ。
 泡の産物であるあやかり商法が現代経済のど真ん中に鎮座する。祭りの本道を一つの風物として己と同化し楽しむことを第一義とするべきだ。そのうえであやかり物の楽しみも加味していくことが大切かと思われる。
 祭りや各種イベントに限らず、世の中のものの捉え方というのは、本道はもうどうにもならんから、その副産物の出来でものの良し悪し、つまり価値を決めようとしている。「しようがない」が幅を利かせ戻る道を閉ざしていく。もちろん本道にある本質を振り返ることもなく。
     2022.8.22

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。現在時間講師をやってます。
カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です