ウクライナ情勢と民主主義と教育と白髪レガシー

 報道規制が強まるロシア国内の状勢。ジャーナリズムは、真実とは言えずとも、ありのままを発信することも許されない。それどころか、嘘をかぶせて報道する状態にさえある。ロシア国内の人々の声はほとんど聞こえてこない。挙句国営放送のキャスターらが反乱から辞職する様態。かつての日本がそうであったように、もどることが叶わぬ返しのついた一本道を皆でひたすら突き進むような状態にある。戦争はやめるべきと思うロシア国内の一般人も確実にいるだろうが、それを発したり、意見したり、議論したりする場が統制され皆無となっているのである。
 バイデン大統領は言う。「ウクライナの状勢は民主主義と専制主義の戦いである」と。プーチンという独裁者が思いのままに内外に猛威をふるう様子から見ると、プーチンは専制主義者であることはわかるが、それが民主主義との戦いであるとするには、アメリカおよび西側諸国、そして日本も、専制性のまったくない民主主義を実践していなければならないはずだ。だからバイデン氏の言葉はある意味正しいのではあるが、言葉による意識の扇動がはらんでいる気がしてならない。
 戦いたくもない相手と戦わなくてはならない戦場という現場にいる兵士や庶民‥‥。彼らの思いや情況が政局に反映されることはない。とにかく現場は実行するのみ。
 現場というリアルな空間の声を聞く民主主義は、専制国家だろうが民主主義を名乗る国家だろうが存在しないのかもしれない。現場は上の決めたことを自分の判断を交えず粛々と行うことに終始する。
 戦時下の話だけとは言えないからこそ、見極める目を持つべきだろう。
 問題を抱えた現場の声を聞かず、現場にはいない当たらず触らずの無責任な大多数の声に権力者の恣意を混ぜて、これを民主主義と称えるのだ。民主主義を名乗る国であろうとも専制国家のそれと同じ様相を醸し出すのである。
 教育の現場も大きく変わってしまった。一教師がその学校の運営に携わることはなく、会議の席にもつけない状態なのだ。そもそも職員会議なるものも、「民主主義」同様、聞こえのよい言葉として使われているだけで、実質「会議」の様相は呈していないのだ。だから、困窮する学校現場の声は黙殺されていく。企業も同じだろう。民主国家を名乗る国の社会全体のシステムが専制化してしまい、皆で善き方向へと模索し創り上げる側面は消えていった‥‥。
 「白髪レガシー」を書き始めた肝はここにある。教育こそは嘘で塗り固められた世論に同化することなく泥臭く地に足をつけて育む姿勢を失ってはならない。実感を伴う学びを子供たちに与えていかなくてはならない。人々が民主主義という実感を得られぬまま、これが民主主義であるとすり込まれぬよう注視しなくてはならない。
2022.3.27

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「平等という言葉は嫌いだ」

言い過ぎの感はあるが、私だけなのかもしれないけれど、私の感覚からするとそうなのである。「いい言葉ではないか」と言われるかもしれない。でもそうなのである。

私が想う平等とは、free (自由)であり、nature(自然)であり、neutral(中立)であり、root(根源)であり、zerobase思考であり、 liberal(自由主義)をまぜたところにある。

「やらないよりやった方がいいに決まっている。」よく聞かれる言葉である。しかたなくやってはみるが、「だから何?」「で、どうした?」となるスパイラル。

「使命をまっとうせよ!」ともいわれる。欺瞞に満ちたご都合主義の唱える使命を、己のなすべき「使命」とはどうしても思うことができない。

何故世間は、寒き方へ浪費する方へ事を運ぼうとするのか?袋小路に追い詰められ、雪隠詰めにされる気がしてならない。前向きに発展的にあたたかさを携えていきいきと自由に生きることは使命をもたないクズの戯言だと言いたいのだろう。「平等」でなくとも「平等」と断ずる気風が渦巻いている。「正義」でなくとも「正義」と断ずる気風が渦巻いている。「自由」でなくとも「自由」であると断じ、「平和」を軽んじて「平和」と断ずる気風が渦巻いている。「自然」を大切にすべき最中で「破壊」が後を絶たない。

「制裁」「懲罰」により、抑止力を植え付けるというお決まりの方策。その下地にあり盾となるのが、法であり国際社会の取り決めである。戦争だろうが、社会だろうが、学校という教育現場であっても例外ではない。「チャイム着席違反を〇回した者は、草むしりをさせる」といったことを教師側からではなく、委員会や学級活動の場で生徒が作り出していく。自分たちで考えて取り決めたのならいいことではないかと思われるかもしれないが、生徒の中には、誰かが違反するべくもちこみ、違反したものが罰を受けることになるのを楽しむ輩もいるわけだ。悪い種を蒔いてしまった気分となる。結局こうはしたもののどんなすばらしいものが産まれたのかさっぱりわからないというジレンマが返ってくる。うまくはいかんと感じてはいても、しばらくたつとまた同じことを繰り返してしまう。歴史もそれを物語っている。人間はどこまでいっても精神的な進化はのぞめないのかとその短絡たる姿勢が悲しくてならない。     2022.3.24 追記

 

 

 

投稿日: 作成者: hirorin | コメントする

法規という台本を演ずる自分というアバターを作る現代(道徳を超越する法規)

菅田将暉がドラマ「ミステリと言う勿れ」の中で「人を殺してはいけないという法律はない」と言う。刑法には「殺人罪」といういわゆる懲罰を記したものはあれど、「人を殺してはいけない」という文面はなく、その理由を明確に述べてはいないからだ。そして、その理由は、述べてしまうこと自体が不条理を呼ぶからなのだろう。

人は一歩表へ出れば、社会規範や常識とやらを纏うアバターとなって生活している。素の(自然な)自分を感ずる時間・機会が薄れてきているのだ。「自分の考えていることは、世の中から見たら正しいのか」という社会の通念という世間体を装うアバターに支配されて生きている。人は一人では生きられないのだから、社会や他者とのすり合わせは、常に常識・規則・法規というステージ上で測られる。よって自分の想いを戦わせる舞台には立てないのだ。「自然に生きる(自然の中で自然な自分を感じ生きる)」ことができなくなってしまった。「自己理解」というアバターづくりの教育がなされ、本当の自分をわからなくする結果を産んではいまいか。自己・自然・本質・根幹から離れた世界で生きる術をスキルと称して学ばせてはいないか。ずっと懐き続けてきた想いである。

「『新しい博物学』の時代」という教育出版の国語の教科書に載せられた教材があって、筆者池内了氏は、「博物学から発展した科学は、深いけれど狭い多数の専門分野の集まりになってしまった」と述べている。つまり学問というものが、分化の経緯をたどり、一つ一つの専門分野となり、のちにはその分野が関係、連携しないものへとなっていく。相互性のない回帰のない方へ進んでしまうことである。現代の一握りのスペシャリスト養成の気運はそこからきているのかもしれない。教育の現場でもそれはささやかれたのか、「総合的な学習の時間」として、各教科の溝を繋ぐべく横断的な連携と発展・応用(自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる)として登場した。しかるに横断的とは言いながら教科の溝にある部分の新たな分野を切り出してきた様にみえる。情報教育、福祉・ボランティア体験、職場体験、伝統文化、オリパラ‥‥。そして昨今話題のSDGsという開発目標に関しては、環境問題(13,14,15)を軸としながら、「(15)ジェンダー平等」は混合名簿で既にやっていますと匂わせつつ盛り込まんとしている。もちろん世界に目を向かせ、貧困や戦争で平和を失っている世界を教えもするだろうが、最終的には「(8)働きがいも経済成長も」に回収されて負わされる気がしてならない。これを総合や各教科でやっていくのだろう。教科間の溝を繋ぐべく産まれた総合が細分化した新たな科目をする教科となっていく。その主体は生徒。生徒自身が興味関心を抱き、どういうことか、何が必要か、何が足りないか、どうすればよいかと知識を基に思考を巡らす横断的・発展的な活動は今はもうのぞめない。なぜなら、生徒が志向する前に新手の課題として「らしきもの」を与えてしまうからである。
17の開発目標に分化されたSDGs。トランプ遊びの神経衰弱じゃあるまいし、各教科の単元が開発目標のどれとリンクするかと迫られる現状。生徒たちにもその手法でこれからは教えていくのだなと容易く想像できる。やらされる方は本当に神経衰弱になってしまう。テレビである解説者が言っていた。「SDGsは世界経済をみすえた目標である。」と‥‥。
道徳も20ほど「徳目」めいたものがある。それをたどることがゴールとなりかねない。

話を戻そう。「人を殺してはいけない」ことは、法律にあるなしに関わらず万人に共通認識できるものである。これこそが「道徳」の根源である。法に定められているからいけないのではなく、自ずと体現を通して獲得していくものなのだ。その道徳に教科化という枷をかませて、具現化したかにみせているのが今の道徳である。法に倣い、法に従い、用意された答えをなぞる硬い枠組みに閉じ込められ、発想をもつ(考える)機会も与えられない。まるで法は、人の共有できる認識よりも尊いかのようだ。
道徳は多くの者が、いや全員が、共有できる理念としてあるべきものだ。誰のどこかの都合であるものでも枠組み(システム)でもないのだ。
「人を殺してはいけない」- 当たり前のある意味低レベルなモラルと思われるだろうが、そのレベルで思考・判断を開始しないと回帰できない未来をまた造ってしまう。SDGsも同様である。低レベルであるからこそ、それは基盤であり、回帰すべきバイブルとして心に敷く大切なもの。それが道徳であると思う。

法規が先んじて牛耳る道徳に自分を見つめる余裕はない。
自分がわからなくなる時代から自分を知らない世代が産み出されていく危惧を感じてやまない。
2022.1.31

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ストレス源

この投稿は「白髪レガシー」の号外として、綴ったものに加筆したものです。

ストレス源

 働き方改革の一環なのだろうか、「各自がなんとかせい!」が当たり前となってきた。
 「ストレスチェック」の通知が届いた。私が受けた感じとしては、「ストレスチェックを実施期間内に必ず行い、その結果で受診・診察が必要ならば、しかるべき機関で受診しましょう。」と聞こえてくる。”また自己責任かよ!”
 個人に義務を負わせる方向性が見え隠れする。「労働安全衛生法」は事業者に課せられた義務であって、労働者に課すものではない。ストレスに耐える方法やらストレスをストレスと感じない方法やらストレスを緩和させる方法やらを診察結果でうけたとしても「ストレスはなくならないもの(あって当たり前のこと)だから、自身の考え方を変えて対処しよう。」に落ち着いてしまう。事業者は、労働者にむけてストレスのない環境を作る努力をしなければならないのに。「各自に『ストレスチェック』やらせました。おしまい。」で済まそうとするのか。事業者が各個人(労働者)に課すことで、事業者自体の義務を果たしたこととするのだろう。事業者が率先して動くことはない。当然職場の改善は見られず、個人が受け取るストレスの種が増えるばかりとなる。
 ストレスチェックだけのことではない。社会が世の中がその方向を向き始めてしまった。 
 事業者(上の者)が働く者(労働者)の立場や思いを「忖度」して、働きやすい環境づくりを目指すことが求められる。
 何ゆえまたしても上位の者が下位の者に上位者の立場を忖度させんとするのか、わかりません。 
 教員免許更新制廃止はうれしいが、新手の研修制度を模索しているらしい。おそらく各学校長による研修などとなり、またも現場に困窮の種を投げつけられる気がしてならない。
 何が行なわれているかしれないブラックボックスを次から次へと設けて、「???」の中で「そうするしかないのか」という諦めの気持ちへと誘(いざな)う。暗黙のもたらす権威の増強なのでしょうか。
 言うことを聞く者しか教師は続けられなくなるやもしれませんね。             2021.11.17

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芭蕉の美観・価値観 定家との差異

 芭蕉の持つ美意識とは何か。藤原定家との違いを見つつ考察してみた。着目点は、余韻というか、あとに残る味わいの色合いである。なにを醸し出すことを望んでいたのかということに尽きるとも言える。

 まずは、定家から見ていきたいと思う。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

 三夕の歌のひとつでもあるこの歌。咲く花も色づく紅葉など華美なるものは何もない。殺風景な海辺。ただあるのは、粗末な小屋(苫屋)だけである。浮き彫りにされる残り香のような味わいといえば、いっそうの寂しさをさそう「苫屋」である。ただでさえ殺風景な無機的要素が高い情景に苫屋だけがあるというかすれた情況を助長させた感がある。負の世界観にさらにくっきりとピンポイントにつきつめた負を重ねるのである。究極のストイックさを感じてしまう。「ただでさえもの寂しいのにこのうえこれかよ!」と。

駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

 この歌もそうである。馬を留め置いて、衣服についた雪を払い落とす(身を宿す・ひと息つく)屋根のある物陰とてもありはしない。人けはもちろん無くただただ雪が降る景色にあるのは渡し場の小さな桟橋だけである。小舟が停留されていてもいい。雪の降る殺風景な情景にいっそうの寂しさを醸す雪の降り積もった桟橋が浮き彫りにされる。

 方向性でいえば、寂しさの先にある究極の寂しさである。我々凡人には理解しにくい枯山水の庭園のごとき殺風景の極みである。

 さて、芭蕉はというと定家とはねじれの関係に見える。つまり残るイメージ(余韻)が正方向に輝いて見えるのだ。味わいに有機的なあたたかみを感じるのだ。

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

 我々がこの句の余韻として残像に残るのは、雛人形を飾った明るく煌びやかな温かい家の様子である。対比の構造として、「陽」→「陰」があげられるが、芭蕉はほとんど「陰」→「陽」である。残る味わいには明るさ、輝き、あたたかみを残すよう工夫していると思える。

夏草や兵どもが夢の跡   義経主従と泰衡主従が戦う姿

五月雨の降り残してや光堂  500年後に訪れた平泉に残されていた金色堂

五月雨を集めて早し最上川  やわらかい梅雨の雨を集めて勢いよく流れる最上川

 マーカー部に、最後に残る味わいに動的で有機的なプラス志向のイメージを感じるのである。

「夏草や兵どもが夢の跡」の句は、「夢の跡が残るのだから何もないではないか」と言われるかもしれないが、イメージとして浮き上がった当時の光景が感涙を呼び起こして終わるのである。

「五月雨の降り残しや光堂」の句では、「高館」との対比を込めてその感動を記している。地の文に「『既に頽廃空虚の草むらとなるべきを』(もうとっくに〔高館と同様に〕廃れ果てて何もない草むらとなるはずだったところを)」とあるところから、「大門の跡」や「金鶏山」といった「あるにはあるが」のものではなく、金色堂として当時を偲ぶことのできる実景があったことに感銘したものと思われる。

 定家と芭蕉とで無常観が情感の基盤にあることは変わらないにしても、そこになにを見出すのかという点で定家と芭蕉とでは大きな違いがあり、それが各々の美観として表出しているのだろう。

P.S  それにしても、1186~1189年の平泉において、藤原秀衡、藤原泰衡、西行、源義経が鎌倉の源頼朝との狭間でそれぞれがどのような想いや希望を描いていたのか気になるところである。   2021.10.17

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おくのほそ道 曾良 山中温泉にて腹痛リタイア。なのになぜ?

「おくのほそ道」には謎が多いのですが、解せないのが次のことです。

 ひどい腹痛から、芭蕉との旅を断念し親戚筋の伊勢長島で養生することとなった曾良。体調おぼつかない中、芭蕉より速く歩き、ゴール大垣よりずっと先にある伊勢にたどり着けるものなのか?しかも曾良は養生後大垣に赴き、芭蕉の到着を祝うようだが。

①加賀の山中温泉から芭蕉を残して、病身の曾良が芭蕉に先んじて進めるものなのか? しかも、伊勢長島まで? さらに、大垣へと戻って芭蕉を出迎える?

②養生のためだとして伊勢に向かったのは、本当は「おくのほそ道」の旅の後の芭蕉の伊勢参りの段どりでもしていたのか? または、芭蕉翁むすびの地到着の伝令役として、近隣の門人たちの大垣出迎えを仰いでいたのか?

 まさか、 「おくのほそ道」 の旅のむすびが近いと察し、病をおして必死に芭蕉をたてるべく上記のために奮闘したのか? など。

 謎、謎、謎‥‥。

2021.9.28

 

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バブルな精神、水疱と化す。

 世の状勢を利用して、さらなる権威を強める。

  •  ○○ファーストと称して、○○にとって得となるように匂わせ、扇動する手法。
  •  ITを利用して、人々の自由と思考の芽を摘む手法。
  •  コロナを利用して、マンパワーを必要としない職種を称え、人件費を抑えて業績躍進を図る術を持つことが賢いと誘う手法。

 格差を広げることで、伸びた業種が株価をあげて、経済の低落を抑え込み、彼らばかりが躍進する方向性を築いてしまう。

 同じ業種であっても、同じ製造品であっても、他との優位性を説き、勝つことによって生き残る道筋を立てる。勝ったものだけが勝者となって君臨していけるという意識に持ち込む。そのために、優位性、プレミアをつけることにつながり、それが当たり前になっていく。普通のものでは物足りない、得した気分にならないといった精神が人々の中に浸透していく。結局普通のものは潰れていく図式を産み出す。底辺をなす普通のものがあってこその産物であるのに、もはや自分こそが基準であるとしてしまうのはなぜなのだろう。アップサイクルの発想は面白いが、独占的閉鎖的な結局高価なものとなって、普及に至らなければ、意味はない。

 精神的なバブルに陥ってしまっているのだ。

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権力に萎縮する人の世(考えない構図)2020.12.31

 不穏な雲が世界を覆う。アメリカ、ロシア、中国の三国の共通点は、権力者が自己の権力を存続し、かつ強靭なものにしようとするところである。米国は大統領は代わるが、訴追されないよう現段階で恩赦されるよう画策したり、ロシアは大統領の任期年限を大幅に延ばしたり、中国は中央集権を確たるものとする故で香港の民主主義を潰しにかかる。ISIL(イスラム過激派)も同様ではあろうが、世界の悪役というレッテルのもとに強国は案じて、これを隠れ蓑とし、強行を施している感がある。つまり世界の流れが専制政治を擁護するかの様相である。もちろん日本もこの流れの中にある。トップダウンが常套となってしまった社会構造にそれは見える。体制批判をすることは罪とされたり、降格・失職を負うこととなる恐れを抱かせるよう仕向ける。保険や証券・銀行はIT化が進み、人件費を抑える利点はある反面、マンパワー(働き手)が必要なくなる。多くの契約業務は消費者本人が行うという形へとなっていく。セルフという聞こえのよいガソリンスタンドよろしく店舗窓口での従業員の業務対応・処理はほそり、産業の展望はIT化・AI化の名のもとに人を必要としない方向へと進む。人を削減することにより生き残りをかける業界の指向。仕事に就けない失業者・未就業者が増えることは必至である。
 コロナ感染防止の到達点は、庶民がセルフで頑張りぬくことに尽きるということを政策としているに過ぎない。「わかるよ」「わかるけどでもねぇ」「『欲しがりません勝つまでは』の精神で我慢を強いるには限界があるよね」と心の声が漏れ出ている。
 所詮庶民は上位者の意にそぐうべく忖度しつつ働き、不条理・理不尽という辛さを背負う運命に終始しろということなのか。上位から言えば弱い者いじめが、下位から言えば不条理を粛々とセルフで何とかして受け入れることが「新しい生活様式」であり「働き方改革」ということなのか。
 世の中のうねりが人の生活に浸透してきていると感じる。人が考えないで済む世の中、人が働かないで済む世の中へと。

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Vol.48 懲罰と教育

 世の中は規制と懲罰を高める方向に動いている。
 それによって違反や犯罪が減少するのなら、それも致し方ないことだし、平和な生活を産み出すなら、かえっていいことではないか。と思われている傾向を感じてならない。
 フィリピンではマスクをしないで街を歩いていると、罰金を払うということだ。しかも2度目は倍額になるようで、3度目以降は4倍になるらしい。
 日本でも、犯罪によっては、刑を重くする方向性で今日まで来ている。刑を重くすることで、罪を犯すことを躊躇する(とどまらせる)ようにしているかに見える。

 我々教職の世界も同様で、昔ならば、厳重注意・訓告にあたる行為が、戒告・懲戒免職にもなっているのです。学期の終わりには、職務研修とかで、事例があげられますよね。「これをやったら、こうなりますよ!ぜったいにやらないように!」というように。処罰の重さにおののいて、事を起こさせないようにさせる手段なのでしょう。大きく展開すると香港のような状態とも言えます。大人であれば、ある程度は確かに必要悪として処罰を強めるのもやむなしと我慢することもできますが、教育というカテゴリーにも浸食しているのは否めません。いつしか子供に対して「そんなことばかりしてると〇〇だぞ」といった懲戒をにおわす言い方をすることはありませんか。懲罰を振りかざすことなく、子供の心の中にずるいこと、悪いことをしようとする気持ちを起こさせないように耕すのが学校教育の真の役目ではないでしょうか。大人と同じ、懲罰によって踏みとどまらせる犯罪の構造を子供に持ち込んでも、それが教育とはいえないのは一目瞭然ではないでしょうか。犯罪を犯さない心をじっくりと育ませることが重要なのでしょう。パブロフの犬のごとく懲罰に条件反射してなさぬのではなく、子供自身の中から産まれる「より良くするには」と考える機会と力を与える土台を作ることが大事だと思うのです。紋切り型の大人の手口で子供の世界にそれを浸透させても今の大人と変わらぬか、それ以上の石頭となってしまうに違いありません。やわらかにはぐくみ実感のある幸福への道筋を決して消してはならないと思います。
 コロナの影響もあり、更に紋切り型の世の中へと移行するものと思われます。風物や文化が再生するか心配です。無駄なことはしない。得しないことには目もむけない。自分が判断しない。責任を負わないことを第一義とする。なんとも味気ない隙間だらけの未来が浮かんできます。
 「口に出して言わなきゃ解らないから、ちゃんと言いましょう。」と言われる社会。たしかに言えるようにすることは重要ですが、言わずともそれを理解する感性を育てることがもっと大切なことで、急務であると思います。全てを言葉にして説明しなければならないならば、分厚い取説と同じで、頭に入ってこない状況となるでしょう。空気を感じ、実感をもって対処する感覚や思考を慌てずじっくりとはぐくむところに、関わりの中に見出す良きもの(文化や風物や味わい)があると信じたいのです。法律や決まりでしか己を律することができない精神ばかりが膨張していると言えるでしょう。自分という規準ではない、どこからかおろされた規準がないと落ち着かないムードとも言えるます。自分が善しと思って判断・行動したりすると、責任は自分に回ってきます。だから、誰かが判断してくれるのを待つという規準を求めてしまうのです。悪循環へと踏み込んでいる現代から豊かな未来が見えない不安は誰もが感じているでしょう。感じる心があるうちに教育はそこを掘り下げる努力をしなければなりません。

                                 2020.7.31

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Vol.31 迷路を彷徨う社会

 迷路を彷徨う社会

 この道はどこへ続くのか?誰も知らない。
 わからないようにしているというのが正しいのかもしれない。みなさんは十年後の自分の姿が想像できますか?うっすらとかすんだ未来が浮かぶだけではないでしょうか。
 核廃棄物問題にしても、日本はおろか、スウェーデンをはじめとする欧州の核廃棄物処理の先進国でも高レベル放射性廃棄物の処分場建設が始まったぐらいで、高レベル廃棄物の処理を行ったとのニュースは聞こえてこない。出口が塞がっている中で、押し詰めるように溜まっていく核廃棄物。日本でも福島原発の汚染水飽和の状況をみてもわかるとおりだ。先の見通しが見えない中で、既存の仕事に併せて「せねばならぬとする仕事」をやみくもに従事する我々教員と同じである。つまり社会そのものがそんな仕組みの中にある。先に光があるならば。先に光が見えるなら、前には進めよう。しかし、光も見えぬ地層の先に隠しこむしか算段のない核廃棄物のごとく、栓をすることに終始せざるを得ない社会の気風が私の気持ちを萎えさせる。
 教育に柔軟性は必要かと思う。また同時に揺らがぬ芯も必要だと思う。昨今を思うに、揺らいでほしくないところで柔軟性を多様性をと連呼し、柔軟性を持つべきところに規制を加えて強要すると感じることだ。
 「自ら考える力を育てる」と言いながら、「こう考えないといけません」と規制する。迷路に追い込む手法というのか、「注文の多い料理店」状態はいまだに続いている。教育に限らず、社会も同じ状況をかかえている。

 「注文の多い料理店」を解釈してみよう。
二人の若い紳士が(二人のチャラい若者が)イギリスの兵隊の形をして(それっぽい恰好をして)鹿狩りとシャレこんで入った山奥。いつの間にか案内人も消え失せ、連れてきた二疋の白い犬も泡を吐いて死んでしまう。死んだ犬について、「ぼくは○○円の損害だ」と口々に言い合う。二人は、釣果の得られぬ釣り人のごとく「昨日の宿屋で、山鳥を拾円も買って帰ればいい。」と言って帰ろうとする。しかし、戻る道がわからなくなり困窮する。その後の展開はみなさんもなんとなくわかるでしょう。ここに登場した二人の若者は現代にもよくある普通の若者と同じです。ちょっと格好つけてシャレこんで鹿狩りでもっていうごくごく軽いノリで楽しもうとしている様子です。それが、悪いことだとは言えませんよね。歳をとった人だって同じように思ったりした経験はあるはずです。どこにでもいる普通のこれといって悪いことはしていないとされる人間。彼らに起きた災難?最後に蘇ったのか白い犬と簔帽子をかぶった専門の猟師に助けられる結末とはなりますが、「そして猟師のもってきた団子をたべ、途中で十円だけ山鳥を買って東京に帰りました。」山鳥買って帰るんかい!と突っ込めました?「しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。」でおしまいとなります。痛い目にあったはずの若者は、結局のど元過ぎれば熱さ忘れて、また同じことを繰り返すのでしょう。それにくぎを刺すために顔がくしゃくしゃのままとしたのかもしれません。宮沢賢治は根本的に変わらぬ人の根に悲しみを憶えたのでしょう。鹿や山鳥を自分の趣向として楽しむためにだけ撃ち、自慢するためにだけ持ち帰る。連れてきた犬が死んでも、その死を悼むどころかいくら損したかと考える。蘇った犬に助けられてもありがたみも持たず。山鳥を買って何事もなかったかのように格好つけて帰っていく。彼らには経験から学ぶ資質がなかったようです。
 世の中ってそんなもんだと思いませんか?宮沢賢治が生きた時代も同じようだったのでしょう。自分のことしか考えず、自然の摂理には逆らい、わかった風をよそおいはするが決して理解しようとはしない人の心根を彼はあばいていったのだと思います。「オツベルと象」でも人と人の理解していそうで理解してない点を描いていると私は見ています。

 世の中に疑問・矛盾を感じた時、人はまた同じ過ちを繰り返すのではと勘ぐってしまう次第です。

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