平等という言葉は嫌いだ

「平等という言葉は嫌いだ」

言い過ぎの感はあるが、私だけなのかもしれないけれど、私の感覚からするとそうなのである。「いい言葉ではないか」と言われるかもしれない。でもそうなのである。

私が想う平等とは、free (自由)であり、nature(自然)であり、neutral(中立)であり、root(根源)であり、zerobase思考であり、 liberal(自由主義)をまぜたところにある。

「やらないよりやった方がいいに決まっている。」よく聞かれる言葉である。しかたなくやってはみるが、「だから何?」「で、どうした?」となるスパイラル。

「使命をまっとうせよ!」ともいわれる。欺瞞に満ちたご都合主義の唱える使命を、己のなすべき「使命」とはどうしても思うことができない。

何故世間は、寒き方へ浪費する方へ事を運ぼうとするのか?袋小路に追い詰められ、雪隠詰めにされる気がしてならない。前向きに発展的にあたたかさを携えていきいきと自由に生きることは使命をもたないクズの戯言だと言いたいのだろう。「平等」でなくとも「平等」と断ずる気風が渦巻いている。「正義」でなくとも「正義」と断ずる気風が渦巻いている。「自由」でなくとも「自由」であると断じ、「平和」を軽んじて「平和」と断ずる気風が渦巻いている。「自然」を大切にすべき最中で「破壊」が後を絶たない。

「制裁」「懲罰」により、抑止力を植え付けるというお決まりの方策。その下地にあり盾となるのが、法であり国際社会の取り決めである。戦争だろうが、社会だろうが、学校という教育現場であっても例外ではない。「チャイム着席違反を〇回した者は、草むしりをさせる」といったことを教師側からではなく、委員会や学級活動の場で生徒が作り出していく。自分たちで考えて取り決めたのならいいことではないかと思われるかもしれないが、生徒の中には、誰かが違反するべくもちこみ、違反したものが罰を受けることになるのを楽しむ輩もいるわけだ。悪い種を蒔いてしまった気分となる。結局こうはしたもののどんなすばらしいものが産まれたのかさっぱりわからないというジレンマが返ってくる。うまくはいかんと感じてはいても、しばらくたつとまた同じことを繰り返してしまう。歴史もそれを物語っている。人間はどこまでいっても精神的な進化はのぞめないのかとその短絡たる姿勢が悲しくてならない。     2022.3.24 追記

 

 

 

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です