芭蕉忍者説について 芭蕉の美的価値観について 

芭蕉忍者説について

 2025/03/29 放送のテレビ朝日「博士ちゃん」でもふれられていた「芭蕉は忍者だった」について、私の見解を述べてみます。
 「芭蕉の出身は伊賀である。老齢にしては健脚である。関所(関門)を安易に通ることができた。忍者の教科書には隠密の化する適職は俳人とある。仙台では句会を開かずこそこそしていた。」あたりが、その根拠として述べられていました。
 ロマンをこめて、あえて反論したいと思います。
 芭蕉が隠密だとして、まずわからないのが「何のため?」ということです。幕府の密命を携えて、旅の俳人に化け、当時の仙台藩が負わされた東照宮修繕に絡み、謀反を企てているかどうかを探るためということでしょうか。また、「おくのほそ道」の旅だけは特別の隠密行だったというのでしょうか。
 状況証拠(客観的根拠)としては、成り立つかもしれませんが、目的という内面的な情状(情緒)をくみ取った根拠とは、いえない気がしてしまうのです。
 私としては、「敬慕する西行師匠の心境に迫ろう(同化しよう)」とみちのくの旅に赴いたと考えています。その根拠としては、元武士西行(上皇の身辺を警衛する北面の武士であった)の出家後の謎めいた(隠密めいた)行動に見て取とれます。奈良東大寺焼失の勧進(寺院の修繕のために、浄財の寄付を求めること)を名目として、奥州へ赴いたことです。
 西行が奥州向かう当時1186年といえば、前年に義経・行家追討の院宣(後白河法皇が一度は義経の説得のもと「頼朝追討の院宣」として出したが、後に頼朝の怒りをうけ、機嫌を払拭するために出したもの)が出されており、平家討伐の立役者であった義経が兄頼朝に追われている状況なのです。西行は、奥州行きを打診するため、鎌倉に寄り、頼朝と面会します。西行の名目(表向きの理由)は先にも述べた勧進なのですが、どうもそれだけではない気がするのです。時勢を鑑みれば、「もしかしたら義経は、世話になった平泉に逃げ入るかもしれん。」と頼朝も含め、誰もが考え得るところでしょう。その最中で西行は奥州へ向かうのですから。
 頼朝からすれば、平家討伐を終え、今後の気がかりといえば、これまで沈黙を貫いてきた奥州藤原氏なのでしょう。頼朝は、西行が奥州藤原氏と同じ藤原秀郷の子孫であることも承知していたでしょうし、たとえ西行が敵となるかもしれぬにせよ、義経が平泉に入ったり、西行がよからぬ画策を講じたならば、奥州藤原氏撲滅の大義(理由付け)がたつのですから。
 中央(鎌倉)が、奥州(藤原氏)に睨みをきかせる構図の中で、行脚するのが西行なのです。この謎めいた(隠密めいた)行動の意図は藤原秀衡に頼朝の思惑や動向を伝えんとしたのかもしれません。
 これと同じような構図となるのが、芭蕉の奥州行きの時です。
 中央(江戸)が、奥州(仙台藩)に睨みをきかせる中で、芭蕉は平泉に向かうのです。この芭蕉の謎めいた状況が、隠密論を生み出しているように思えるのです。500年という歳月の隔たりの中に見えたふしぎな符号点。ただし、芭蕉は密命を携えて旅した隠密ではなく、師匠西行が500年前のあの時に、どんな思いで平泉へ旅をしたのだろうかと気になっていたのだと思います。きっと、似たような構図の状況下で行脚すれば、師匠の思いを垣間見、体感(同化)することができると考えたからではないでしょうか。
 芭蕉が幕府のスパイ(隠密)とはどうしても思うことはできません。どちらかというなら西行同様、弱者である仙台藩を気づかっていると思える次第です。
 違う時代に似たような構図の中で行脚する「時の旅人」。それが、芭蕉を謎めかせてみせる理由だと思っています。西行かぶれの芭蕉は師匠の思いの丈に触れたかったのでしょう。

 芭蕉は、古人の一人「宗祇」が崩れかけた俳諧連歌を格調高いものへと戻し確立したのと同様に、俳諧がおちゃらけて滑稽なものがあたりまえとなっていく中で、格調もあり、芸術性の高い、それでいて前向きな温かみのあるものを創設せんとした芸術家であると信じたいです。決して策士ではないと‥‥。
                              2025/03/30

芭蕉の美的価値観 芸術性について

 おくのほそ道は虚構が多いなどと言われるが、それは、芭蕉自身の美観に正直であったところから来る部分も多かったためと思われます。
 例としてあげておきましょう。
  閑さや岩にしみ入る蟬の声  <立石寺>
 有名な句なので知っている人も多いでしょう。わたしが、この句の最も素敵な点といえば、「しみ入る」という言葉を生み出したところです。
 この句は次のような推敲のすえこうなりました。

  山寺や石にしみつく蝉の声
       ↓
  さびしさや岩にしみ込む蟬のこゑ
       ↓
  閑さや岩にしみ入る蟬の声

 なんだ何回も書き直してんじゃん!うそっぽくね!と思う人もいるでしょう。ただ、ここでもう一度、どの形態が一番いいと感じるか、振り返ってほしいと思います。
 おそらく、なんだかんだ言っても、やはり最終形態が一番いいというところに落ち着くでしょう。特に「しみ入る」という言葉をあみだした点です。芭蕉は山寺(立石寺)を訪れた時の情感を「しみつく」ではどこか違うという気がしたのでしょう。また、「しみ込む」でもないとも感じていたのでしょう。やっとの思いで絞り出されたのが、芭蕉自身の感覚とマッチした「しみ入る」だったと考えられます。

 「しみ入る」には、「しみつく」や「しみ込む」に感じられる押しつけがましさ(強引さ)がない点です。「しみ入る」は、自然とそうなるといった自発的な感覚が組み込まれた言葉だと感じられるのです。〔文法的にではありません〕

 岩にしみ入り、芭蕉の心にしみいった山寺の景観。掛詞の要素を踏んで感じてあげるとよいでしょう。蝉の声はおそらくかなり大きな音量で響いていたでしょう。しかし、その声は、芭蕉にとって決して苦々しいものではなく、心地よい響きだったのでしょう。それゆえ、うるさいはずの蝉の声を「閑かさや」という対比関係にある快い情景にしあげたと考えられます。これは、芭蕉がそのとき感じた正直な感覚なのだと思います。
 暑苦しくうっとうしくもある蝉の声が、自然に閑静で涼しげな心地よい情感として芭蕉の心にしみたのだと思います。二考目の「さびしさや」にある「さびしい」というネガティブな感覚も、「閑かさ」と入れ替え、ポジティブな心地よさ。前向きな情緒として描こうとしているようにみえませんか。

 芭蕉は、自分が感銘した光景を、どう表現したら、正しく伝えられるかを追求した芸術家だと思います。自分の感じた感動をなにより発句には正直に描こうとしたのだと思っています。

松島で句を残さなかった件について

 芭蕉が松島で句を残さなかったのも、芭蕉自身の心に正直な感動が芽生えなかったからかなと、わたしはみています。自分のポリシー(信念)にそぐわぬことを残そうとは思わなかったのでしょう。たしかに松島の風景はそれなりにすばらしいものではあったでしょうが、冒頭で思い描いたような「松島の月まづ心にかかりて」ではなかったでしょうし、また、それを超えるほどの新たな感動が実際の松島で味わえなかったのではないでしょうか。
 —芭蕉が思い描いた松島の光景は、島々と満月のコラボで、それはそれはどれほど素晴らしいかと心を躍らせたものでした。しかし、実際の「おくのほそ道」の旅で松島に訪れたのは、旧暦5月9日で、満月ではなく九夜月(九日目の月)であり、月がはっきり見えるころには南中高くにあったと思われます。松島の雄島で海面に映る月を地の文(文章部)で述べていますが、海面に映る月ということは、月が高い位置にあったことであり、方位として見ても、島々に懸かる月ではなかったのです。満月でもなく、島々にかかる月でもなかったことが芭蕉の期待を超えなかったところでしょう。それでも、期待以上の別の新たなすばらしい光景が芭蕉の心に芽生えたならば、必ずや句は残したと思われます。
 当初この松島で「島々や千々に砕きて夏の海」と詠みましたが、この句は不満だったとみえて、残されませんでした。ここからも芭蕉は自身の美観に正直にありたかったからだとうかがえます。

 芭蕉の句には余韻として残る味わいに、プラス志向の前向きな良さを残すよう努めていると思われます。

 

                     2025/04/04 2025/04/11 追記

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はぐれた幸福感

 発明や機能を旗印に掲げ、これを進歩であると自負してきた人類の歴史。新たなものを産み出しては覇権を握り、これが基準であると人々の心に植え付けてきた。これからも人類はAIをはじめとするテクニカルかつメカニカルな参謀を船頭として遡上し続けるのだろう。
 いつの時代においても、先進性を念頭において、それをかなえたものが進歩と信じてきた。今、思うにこれも限界を超え、すでにリバースしてしまったように見えてきた。人間の幸福感は、かつては先進性にあふれた産物と並行して存在していたものが、いつしか分岐をはじめ、幸福感と結びつかないものになったようだ。それでも「便利」だから「幸福」だと裏返し、無機質で物質的なものを精神性と置き換えて、自分自身に言い聞かせている気がしてならないのだ。この狭間を丁寧に繋ぎ、埋めていくことがのぞましいが、つながらないところまで離れてしまった両者を無理にこじつけてつないだところで無意味なことは明らかだ。
 人の幸福感や豊かさを、金銭的な経済で量ることが一般的となった現代。もう一度、きちんと振り返り、人と人との繋がりの中に、そして人と自然の繋がりの中に、幸福感を得られる世の中へとむけて舵をきらねばなるまい。地球規模で‥‥。

         2025/02/20

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危うい世界 -理想を凌駕する己に巣くうご都合主義- 〈自分ファースト〉

危うい世界 -理想を凌駕する己に巣くうご都合主義- 〈自分ファースト〉

 今に始まったことではないが、とうとう一線を越えてしまったと痛感した。知事の失職に伴う兵庫県知事選挙において、斎藤前知事が2回目の当選を果たしたことだ。兵庫県の民意がそうさせたのだからいたしかたないことではあるが‥‥。
 何が一線を越え危ういのかというと、我々一般人の思考が「理想」より「己の利」が勝る状況になったと感じたことである。

 パワハラは確かによからぬ行為で、県職員にとっては重大な問題かもしれないが、一般の県民からすれば、当事者ではないので、何の痛みも感じ得ないどうでもいいこととなる。おねだり疑惑にしたって、よからぬ行為であるのは明白ではあるが、県職員からすれば、自分たちが業者から金品を受け取ったりでもしたら即刻処分となるのに、知事ならいいのかと不満を抱くだろう。一般人の目線では、自分たちの税金が使われたわけでもないし、自分の腹が痛むわけじゃない。つまりあまり関係ないといったところに落ち着くのであろう。そのうえ、県民の利益に結びつく功績があるとなれば、問題があったってええやろとなるのやしれん。

 理想としては、人格、政策ともに優れた人で誰に対しても平等あればよいのだが、得てして前者をとるか後者をとるかという二者択一に迫られる。それでも、理想には近いだろう前者を重視すればよいのだが、己の利益と鑑みて後者を選択してしまうケースとなるようだ。

 アメリカは分断・格差の様相が顕著であるが、日本も同じであろう。己の都合につけこまれ、本質をぼやかされ、すりかえられていく理想の姿がそこにある。この二国にとどまらずどこの国も同じベクトル上にあることだ。人類に課せられた命題「自分の思い通りにするために他を排除することを是とするのか」「自分がよければ他には関心なくてよいのか」。

 世界に見られる不法移民に対する風当たりの強さ。アメリカはもとより、欧州、そして川口市蕨に見られたクルド人追放ヘイトデモ。言い分はあろう。しかし、そこに見えることは、理想とは真逆の様相をあらわしてしまうことなのだ。自然を含む地球規模の制圧によって栄えたと自負する人類は、それを基盤として、次の制圧を生み出してきた。結果、理想も希望も見えない社会が拡がっている。教育もこの盲目の中にさまよっている。

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国民保護に関する情報によせて

 政府から国民保護に関する情報(Jアラート)が2024/05/27 22:46ごろ発令された。北朝鮮からミサイルが発射されたそうだ。
 テレビでも「国民保護に関する情報」と連呼している。また、同ミサイルが爆発したかと思われる映像も流れた。
 これまでにも何度か発令された経緯はあるようだが、「Jアラート」と主に称していたのだが、今回は「国民保護に関する情報」という文言を前面に出して報道している。「そう報道するように政府がメディアに仕向けているのかなあ?」と勘ぐってしまう。補欠選挙全敗の自民党が、都知事選や衆院選が迫る中で、状況を変えるべく放った「国民保護に関する情報」という国民も受け入れやすい名目を盾にした逆転の一手かと思えてしまうのだ。
 何でそんなうがった考え方をするのかというと、2017年衆院選自民党大勝のおり、麻生財務大臣(元副総理)は、「北朝鮮のおかげ」と発したことが頭に残っているからである。また、選挙が迫るとよく「Jアラート訓練」が発せられたように感じてしまう自分がいるからだ。今回は訓練ではなく、「国民保護に関する情報」として、ここぞとばかり発令したように見えてしまう。北朝鮮の軍事衛星打ち上げを機に国民の意識を国防や改憲へと誘い、裏金問題から目をそらさせ、国政選挙ではまたや北朝鮮のおかげ大勝を狙っている気がしてならない。
 今回の「国民保護に関する情報」による避難・待避はすぐに解除されたが、彼らにとっては「発令」したことに意味があるのだ。結果がどうであれ(爆発して失敗に終わろうが)、国民の意識に 
「ミサイルを放ってきて危険である」という事実のみを与えられればいいのだから。

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飛び込みのもう真っ白な泡の中 神野紗希

 この句をどうとらえたらよいのか。なやまされた経験から、私が納得のいく形で解釈してみます。

まず、この句の一般的なとらえかたを紹介しておきます。

  1. 教師用教科書(指導書)では「飛び込み台から、水面めがけてジャンプしたと思った       ら、一瞬で着水し、あっという間にもう白い泡の中だったよ。」と紹介されている。
  2. 多くの生徒のとらえかたは「「自分がプールに飛び込んだと思ったらもうプクプクと湧く泡の中にいた。」であった。

 教師用教科書と同じ感想を生徒も感じています。高齢教師であった私は、「若者たちがそう解釈するならそれでいいか。」とは思ったのですが、じじいの頑固さが頭をもたげてきてしまうのです。しっくりこないのです。
 この句から感じ取れるとれる味わいは「爽快感」、つまり「飛び込み」という季語からくる「夏」と相反する「清涼感」ではないかと感じてしまうのです。「すっきりした」「さっぱりした」「涼しげでさわやか」という感覚です。
 「飛び込み」という伏線が、「もう真っ白な泡の中」にとある爽快感にどう回収されるのか(どう関係するのか)疑問に思ってしまったのです。

▷《主観の立ち位置による相違》
 多くの解説が、飛び込んだ主体(飛び込みを行った自分)の感想を表現しているようです。さきほどの教師用教科書もそうですし、生徒の反応もそうです。私だったら、自分が飛び込み台の上に立ち、そこから飛び込んだとして、「もう真っ白な泡の中」なんて感想を抱きはしないと思う。仮に白い泡の中にいる自分を確認できたとしても、ジャグジーのような気持ちよさ=爽快感という解釈ではないはずだし、百歩譲って「恐怖心を乗り越えたさわやかさ」ととったとしても、「それは爽快感というよりは『達成感』だろう。」って思ってしまうのです。私は、主体を客観的な位置においてこの句をとらえたほうがいいかぁと思ってしまうのです。
▷《「飛び込み」を何と想像するかの相違》 
 学校の生徒が「飛び込み」から連想するものは、学校のプールや競泳用プールの飛び込み台です。1レーン~8レーンまであるいわゆるプールの飛び込み台です。
 私はそうではないものとしてとらえています。私が想い描くのは玉井陸斗君で注目された「高飛び込み」です。
 高飛び込みの選手自身が「もう真っ白な泡の中」なんて想いもしないでしょう。ましてや高飛び込みの経験の薄い者が「恐怖で頭の中が真っ白になっておそるおそる飛び込んだところ、たまたま上手くいって白い泡の中にいたよ」なんて様子とは思えないのです。
 「じゃあ高飛び込みじゃないの?」って思ってしまいますよね。私は、高飛び込みの競技を第三者の立場(観客席)から見た様子だと思っているのです。
▷《「もう」をどう回収するか》最大の謎となるのが、「もう」をどうとらえるかです。
 時間的な短さを表すのはいいとして、それだけではない気がしてならないのです。数ある二音の語の中から「もう」という言葉を作者が選択した伏線を回収したいのです。おそらく、「もう」が彼女にとっていちばんしっくりくるものだったのだろうと思われるからです。この「もう」には、「もうたくさん」とか「もう駄目だ」といった悲観的な度合いとは真逆の前向きな「もっと」や「その上」といった要素を感じ得るのです。

 これらのことをふまえて、わたしが解説するならば、次のようになります。

 高飛び込みの様子を固唾(かたず)をのんで見ていると、選手は飛び出したと思ったら空中で見事な演技を見せた。その上、シュポンとしぶきも上がらぬ見事な着水だった。選手は水の中に消えた。あとから泡だけがのぼってきた。3秒にも満たない爽快なドラマであった。

 自分がしっくりできる(納得できる)解釈を描けばよいと思いました。自分の価値観でよりよい作品にするという方向性だけは失わなければ‥‥。

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信じられる自分をつくろう

 信じられる自分つくろう。
 先年度まで働いていた中学校の生徒から有り難い手紙をいただきました。その生徒の中には、このサイトを見ている生徒もいたので、そんな君らに向けて述べてみます。
◎自分の感性を育ててください。
  ◇自分で感じる
  ◇自分で思う
  ◇自分で想像する
  ◇想像したことを構築する=自分で創造する
 つまり、自分の価値観を持つことです。
 これらのことは、現行の教育の中では、大変難しいことなのです。「自分で」のところが、大人や他からあてがわれた知識となっていると感じています。また、テストに出してはかれるような部類の物でもないのです。何にもまして、先生たちが、評価しづらい事柄なのです。だから、判定が容易な知識偏重の教育などと言われる結果をまねいていったのです。ただし、知識を全面的に否定してはいけません。知識は自分を助けてくれる友人と思ってください。ときには、相手の意見を参考に自分の考えを深めることもあるからです。知識は自分の考えを固めるための要素と思ってください。培った知識を伴侶において自分の考えを持つようにするのです。
 感覚性の強い芸術という理論だけでは説明できない部分を、現代の教育はないがしろにしつつ進んでいると感じています。AIなどIT機器が自分の感性や考えを創造するために使われているかといえば、そうではないことが多いでしょう。極端に言えば、答えを引き出すために用いてしまうのがほとんどです。自分の考えを自分で創り上げるどころか、自分の考えを他者・AIに作ってもらっているような状況なのです。
 自分が興味を持てたこと(価値観があるかもと感じたこと)を大切に育んでください。自分の価値観をさらけだして生活できているのかも、自分を見失わないために確認してみてください。

 大人はえてしてずるいものです。ときには子供たちを大人の論理の中に封じ込めて、利用することもあります。だからこそ、自分の感覚を磨くことを忘れないでください。

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金子みすゞ「ふしぎ」中1国語 解説

①この詩の種類(形式)は何か。
 口語定型詩と考えるのが一般的でしょう。
 しかし、どの形式とも限定できない工夫がなされている詩と考えた方がいいと思います。
◇韻律が感じられる(作者も何らかのリズムを感じつつ描いている)点から見ると、定型詩。
 一連 8・5/7・5/7・5
 二連 8・5/7・5/7・5
 三連 8・5/7・5/8・5
 四連 8・5/7・5/6・6
・全体として7・5のリズム(七五調)であり、声に出して読んでいけば、自ずと七五調で読んでしまうでしょう。
ただし、戸惑うところがあるとすれば、四連3行目の「あたりまえだ、ということが。」でしょう。これも、句またがりからなる破調として捉えれば、全体的には七五調の定型詩。
◇細かい改行がなされた今様(現代風)のところから見て、上記破調の部分を重く捉えるならば、自由詩。
◇改行はされているが、句読点が用いられている点、体言止めとなるところがない点などから、散文詩とも考えられる。(改行がなければ、散文となる)
 このようなことからはっきりとこの詩の形式を述べさせることは少ないかと思われます。
 しかしこれが、金子みすゞさんのねらいであると思えるのです。このことについてはあとで振り返ります。
②この詩の言わんとしたこと(テーマ)は何か。
 一通り詩を読んでいくとわかると思うのですが、四連の部分が韻律的にも内容的にも前の連とは違うと感じ取れるでしょう。内容を要約すると、「前の連で述べたような自分がふしぎと思うことを、誰もがあたりまえだと思っていて、ふしぎにも感じないことが『ふしぎ』。」となります。ここに金子みすゞさんの思いが集約されています。
 調べればわかると思いますが、恵まれない生涯を遂げた金子みすゞさん。童謡詩人として、詩人西條八十さんから称賛され、脚光を浴びますが、後に詩作を夫から禁じられ、やがて離婚、生まれた娘の親権のもつれから自ら命を絶ってしまいます。忘れ去られる運命を宿していたかに見えた金子みすゞさんの作品を復活させたのが矢崎節夫さんです。金子みすゞさんの弟と奇跡的に巡り会うことができ、遺作も発掘できたのです。
 大正から昭和に代わる時代。これまでには、樋口一葉や与謝野晶子など有名な女流文学者はおりましたが、それでもこの時代の文芸において、女性であることの厳しさが強かったことは想像できるでしょう。「女は家を守れ!」とか「女が働くなんぞとんでもない」とか、とても制約の多かったことだろうと思います。世間が「あたりまえ」としていることのなかに潜む矛盾や偏見、確証・実感のない理解(思い込み)に対する反発を感じてなりません。世間が「物事を決めつけてしまうことによって『あたりまえ』のことだして理解し、すり替えていく」姿勢に強い疑問を抱いたのでしょう。子供があげるような純粋な疑問を、子供だからといって頭ごなしに排斥しないでほしいのです。
 令和の現在においても、金子みすゞさんの言葉は、生きていると思えませんか。昭和初期と同じ構図がこの令和の初期にもあると思えませんか。だからこそ、金子みすゞさんの詩は輝きを失うことなく生き続けていると言えます。
 詩の形式に話をもどすと、金子みすゞさんは、内容面で誰もが思いもつかない新感覚の詩の表現を模索したのは間違いないと思われます。世間は彼女の詩に何か真新しさを感じてはいても、「ああ口語の定型詩だね」とくくって、決めつけてしまうことに金子みすゞさんは反発したのではないかと思います。
③表現技法について
 「ふしぎ」の詩で用いられている修辞法としては、a倒置法 b反復法 c押韻(頭韻・脚韻)があげられます。
 解説によっては、「対句」をあげるものもあります。一連の「黒い雲からふる雨が、/銀にひかっていることが。」と二連の「青いくわの葉たべている、/かいこが白くなることが。」を対句ととらえる考え方です。色の対比はなされていますが、同じ構成で並べられているかと言えば、厳密には対句というのには無理があります。
しかし、作者金子みすゞさんが全く対句を意識していなかったかというと、そうでもありません。
 対句という技法は中国から伝わってきたもので、中国の詩(漢詩)の決まりごととして用いられるものです。4行(四句)で書かれる漢詩を「絶句」というのですが、杜甫の「絶句」という詩は一行目(起句)と二行目(承句)が対句になっています。「絶句」という形式は、起句と承句は必ずしも対句にしなければならないという制約はないのですが、しばしば、起句と承句が対句で表現される場合があるのです。金子みすゞさんの「ふしぎ」で言うと、一連が漢詩で言うところの起句にあたり、二連が漢詩で言うところの承句にあたります。対句であるとは言えないまでも、対句を意識していたとは言えるでしょう。
◇まとめ
 彼女の詩の作風は、真新しいものばかりにベクトルが向いていたとはいえないのです。新しき方向性を向くときもあれば、古(いにしえ)を向くときもあるのです。つまりとても自由なのです。自分から生まれ出た感覚と合致するなら、古いも新しいもないのでしょう。それぐらい自分の感覚(感性)を自分の思いを大切にしている詩人と言えるのです。この古いも新しいもないことが、すなわち、令和の現代においても彼女の詩が輝いている理由でもあるのでしょう。そして、未来に向けても。

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具現化するは我にあり!

 具現化とは「考えや理想などを実際の形やものにして実現すること」という意味ですが、わかりやすく言えば、「考えや思いを理解できる具体的なものとして表現すること」ということです。ここで大事になるのが、自分自身のフィルターを通して考え、理解するという過程なのです。我々をとりまく「学び」というものが、具現的であればよいのですが、現実は残念なことに抽象化していくことこそが「学び」の道だととらえているふしがあります。たとえ、人の心のひだにささらなくとも、相手にある意味機械的にでも概要が伝えられればよいとする方向性です。
 似たようなものに「客観的」という言葉があります。たしかに、物事を客観的に見る姿勢は大切です。しかし、現実は、客観的であることを推奨し、強要するにまでなっていることなのです。まるで、主観をとなえることが、わがままだとでもいうように。
 つまり、「自分」というものを外した世界で生きることが、トレンドとなってしまったようです。自分の主観と接することなく構築された理解というのは、コンクリートやアスファルトやプラスチックに覆われた都会の街のようで、機械的で冷たく感じられませんか。それは、合理的であるのかもしれませんが、自分の実地での行動を伴わない、体現のないものであることにほかなりません。
 誰もがあたりまえのこととして見過ごしてしまう既成の理解の中にこそ、きらめく発見がかくれているものなのです。おのれの経験から導かれた何かおかしいぞ、しっくりこないぞという疑問や謎が自分の理解を積むための糧となるわけです。自分の感性というフィルターを通して感じえたことや思いついたこと(主観と照らしたこと)とは、本当の意味での理解に近づく必要不可欠なものなのです。
 具現化するは我にあり。間違うことをおそれず叫びましょう。既成の理論にとらわれず、自分というものをとおしてみつめ、自分が納得できる解、つまり真実に迫ることがいつの時代においても大切であると。

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人間がたゆたうブラックボックス

 机上ではきっちり治まっていたとしても、現実はうまくいかないことがある。新幹線の運行遅延は台風に端を発しているが、そればかりではないだろうし、マイナカードの問題にいたってはお粗末としか言えない有様だ。打開する方策としてその矛先をシステムに向けるのが現在のトレンドなのだ。テクノロジックなテクニカルな部分を改善することで乗り切ろうとしていくことになるだろう。
 路線の安全を目視で確認するのは結局人であろうし、乗務員や駅員がその時充足していたかは疑わしい。マンパワーが足りていないことが、またもや問題点なのかとも見て取れる。しかし、それも正しき答えではないだろう。例えば、AIがここをこうしてこうすれば、運行できると出したとしても、それに携わる人員が必ずや必要となる。機械は人の都合を鑑みないのだから、言いたいことだけ言って、あげく、無理を強いられるのは、現場の人間と言うことになる。万物はシステムどおりにすべてが動くと誤解しておられる。システムや数値を取り巻く人の存在あってこそ、それは成り立っているのだから。マイナカードも同じであろう。
 人を見るシステムを構築していかねばならない。現状では、人を見るのは人としている。ところが、見るべき人が削減されたり割愛されたりしている。結果的には、マンパワーが足りないに落ち着いてはしまうのだが、上位の者が机上ではじくだけで、人を顧みない姿勢でいるかぎり抜本的な解決には向かわないだろう。人間がたゆたいながら処理するブラックボックス。その重要性を顧みてほしい。
2023/08/18

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カオスからの暴発

 保険金不正請求の問題として糾弾しているのは、経済を見据えた上層部の思考だ。物事の指標を金銭やらの経済的尺度で測ろうとする。保険業者からすれば、とんでもないことだとして、損害賠償を求めるだろうが、その実、両者がずぶずぶの関係である疑いもあり、結局そのつけは保険料の上昇といった消費者に回る仕組みだ。損害を被った消費者や店舗の従業員に視点を向けられる道筋は残るのか危惧するばかりである。
 副社長の店舗査定・降格人事といったパワハラをかわきりに幹部が各店舗・工場に圧力をかける。また各店長は従業員に対して副社長に倣えとばかりパワハラを施す。覇権を握り、下位を従わせ、裾野を拡げていく慣例のごとき悪しき体制は今に始まったことではない。
 脅しという恐怖で成り立つシステムをゆるしてはならない。しかし、声を上げれば、自分が標的になってしまう。これは、子供社会のいじめと何ら変わりはない。いじめの延長線上にあるのが、強要しつつも下位に忖度させようとするハラスメントの実態だ。

 混沌とした世の中にも慣れてしまった我々。混沌していることが当たり前であり、その中で生き抜くスキルを持つことを求められる。働き方をはじめ生き方を自分で改革・創造していくのであるからよろこばしきことだと思う人も多かろう。
 よく考えてみよう。企業社会はカオスであることを是正するための方策ではなく、カオスを利用して、対処療法的なスキルを売り込もうとしているということだ。カオスの是正は、政府がなすべき事項であって、業界とは本質的には無縁であると言いたげである。経済という緒が繋がっていはすれども。
 さらに一方の政府の思考も是正ではなく、業界にのっかる有様ともいえる。カオスの中で泳ぐものはカオスを助長し、自らもカオスにのみ込まれていく。根源的な是正を図ることを指示することはもちろん示唆する姿勢も見あたらない。
 一般人はこの現状に持って行き場のないいらだちを感じはすれど、それもカオスの成せるものとして、狐につままれたようにやがては容認していく過程を辿る。一蓮托生の政界と業界が生み出す混沌の中で人々は泳がされている気がする。

 世の中の事件事故の根源は、己の中に生じた混沌にあると思える。それは、時にストレスとも呼ばれてしまい、元凶にたどり着き是正する方向性を弱めてしまうこともあるようだ。
 カオス暴発の例と言えば、安倍晋三元首相の銃撃事件。個人の恨みや身勝手な考えが過激化して引き起こされた凶行として捉えられるむきが強い。統一教会がらみのことも話題とはなったが、政治家はそれとの関連は別個のものと切り離してほしいのか、当初、容疑者をテロリストと捉えさせようとしているかに見えた。何がそうさせたのか、どんな事情・情状があるのか、鑑みる姿勢は薄い。情状が少しずつ明らかになると、統一教会の高額献金問題には目をつむり、選挙の際の票数まとめの後ろ盾として繋がっていたことはぼやかし、混沌の海へとまた戻す手法を執る。カオスの暴発は、カオスの中に再び埋没させることで終息を迎えようとしている。

 我々の深層心理にはびこる意識。「いじめ」はなくならない。「上意下達のハラスメント社会」もなくならない。「そらして煙に巻く悪しき政治体質」もなくなりはしない。「数値に換算してものの良さを謀る経済遵守の社会」もなくなるわけがない。そして、そう思ってしまう根源には、「戦争はなくならない。」という心理がはびこっているからのようだ。これが、「なくならないのだからあきらめるしかなよね。」という図式をもたらす。このらせんに渦巻く無限ループの社会構造が夢や希望を絡め取っていく気がしてならない。異常気象、自然災害がどれだけ危機的な兆候を示していようとも、戦争は起こるわけだし、資源を食い潰す姿勢に変わりはないし、自分という狭い世界に巣くう声が「今が、自分がよければいいじゃん。」と囁き、結局、とどまることなく流していってしまう。

 カオスが暴発寸前の今、全人類的地球規模の純粋な道徳心を経済や利益に鑑みることなく発信していかねばならないだろう。

2023/08/16

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