病室から

 大腸癌ステージ1となり、入院手術となって、窓際ではないので、カーテンの中で、景色も見えない中から、見えぬ世の景色を振り返ってみようと思って書きました。2022/12/10

 人々にとって優しい国家であってほしいものだ。

 森友学園がらみの財務省の公文書改ざんにより自殺した赤木俊夫さん。その上司佐川宣寿前国税庁長官。森友問題の発端、国有地取引での”口利き疑惑”が指摘される安倍元首相夫人・昭恵氏。森友学園の国の補助金不正事件で、約1億7千万円をだまし取ったとする詐欺罪で懲役5年の籠池氏。この4名の中で、誰が一番つらいだろう。実刑判決の籠池氏という見方もあろうが、やはり真相究明を諮らずに幕引きを余儀なくされた赤木さん(夫人も含め)である。

 統一教会関連では、二世信者の小川さゆりさんの声にもっと政府は親身になってあげられないのかと思った人も多かったろう。
 この問題も西大寺で元首相を殺害した山上徹也容疑者が、籠池氏よろしく実刑受刑者となって幕引きされかねなかった。統一教会…安倍晋三と、またも重鎮が顔をもたげる。山
上容疑者によって忘れ隠れていた問題が再表出したのだ。

 国家権力は、自分たち(強き者たち)の利益とする事柄を進めたり、守ったりするためには迅速かつ強行だが、一般庶民や弱い者を守るときには逡巡し、難癖を付けて、はぐらかし、遅延し、世間の空気が冷めるのを待つのが当たり前となっている。

 どこから見ても、おかしいものはおかしいのだ。ものの本質に迫ることなく、パタパタと取り決められる施策が、本質の取り残しをまたもや生み出していく。

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ストレス溢れる社会構造

 ストレスが全くないことがよいとは思わない。しかし、前後左右出たところで必ずや見舞われるのがこのストレスなのである。

 人はストレスのかからない世界を夢見て、そこに辿り着くためにストレス社会を泳いでいる。現代のストレス飽和社会の荒波は乗り切ることがたいそう難しいと思える。ひとつストレスに対峙してはその対処にあたり、また違うストレスに遭遇する。この繰り返しなのである。いつしか求めていたゴールとなる安らぎのあるストレスレスな世界という初心まで忘れてしまいかねない。そうしてそこで生まれてきてしまうのが「おれは、なんのためにこれをやっているんだ!」という疑問である。

 いたずらに新たなストレスという機能を次から次へと産み出して、そこに経済的な価値をも産み出さんとしていないか。ストレスの改善に向けた機能が新たなストレスを誘発するというスパイラルなのである。ストレス緩和によって産まれた産業は、ストレスあっての物種であるため、ストレスが無くなれば消えていくしかない。だから、新手のストレスを負荷すべく仕掛けてきているように見える。この世のほとんどがそうして成り上がってきた産業なのだろう。

 今我々にできることは、軸をはずさないことだ。本質という軸をもって、余計なものだとわかったうえで対処すればいい。枝葉末節たる部分ばかりを切り出して対処にあたり、根幹にあたる本道に目を向けないことを常套としてはならない。自分の理解の範疇に入らぬことがストレスであるということを知ったうえで、己の本質と照らして判断していけばいいのだから。

2021.9.20

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妥協するしかないという方向性にメス

 世にはびこる意識。「そうするしかないか、何か違う気がするけど」「ここまで来ちゃったんだから行くしかないよね」「核心にはほど遠いけど、その辺で決着付けておこうか」。打算妥協が渦巻くのである。本来、打開・解決を図るために行う妥協が、あきらめに包まれた状態で表出してしまうのである。ところが、醜いことに、そこを利用し、そうあるべくようにしむけ、巷の一般庶民に流布する流れにまでなっている現状なのだ。
 教員として長年勤めてきたが、振り返ると、何かしでかしてしまった生徒を指導するとき、その事象については指導したが、その生徒の闇にまで迫れたケースは少ない。もとより学校も忙しいわけで、個々の指導に時間をかけてはいられない側面はあるにせよ、ある意味「妥協」して進むしかないレールの上を走っていたのである。本来ならば、闇を払拭し(真っ白な状態にし)、自ずから正しき道を模索できるところまでもっていければいいのだが、途中下車させたに過ぎない指導が早々道を改めることにはつながらず、同じ過ちを生徒が繰り返してしまうことも多々あっただろう。
 自分が理解し納得して行う妥協であれば、それが問題を引き起こすことはおそらく少ないだろう。多くはいつのまにか妥協せざる状況に追い込まれ、理解も納得もないまま妥協していることなのだ。
 現状の妥協は垢(あか)のようなものである。垢を残して進む諸々を見ればわかるとおりだ。政治・経済・宗教・環境・教育・平和・安全・紛争・疫病・生活‥‥。垢は溜まる。我々は垢の中を縫うようにして生活している。当然流れは悪い。時折、一か所に溜まった垢が弾け、大問題となって表出する。悪玉コレステロール(LDL)同様、動脈硬化から梗塞や出血を引き起こしてしまうのである。世の悪玉である垢。さらに、この垢を利用してさらなる垢を積み上げんと目論む経済がある。それをも我々は妥協していかねばならぬのか。「妥協」が本線とは違う新幹線もどきの道筋をも示している。「妥協こそが現世をスピーディに快適に生きる手段なのだ。」と。
 あきらめのない、垢を創り出す前のターミナルなる出発点に戻り、自分の感覚や思考に基づいて道を定められる社会が望まれる。垢の中を進む閉塞した環境で文化が育まれるとは思わない。また、苦い環境下を超特急よろしく見ないで進む輩が創る文化は、文化とはほど遠い。それは、その時ばかりのことであって、流れのよい潤いのあるものとは裏腹の簡易で形式的な張りぼてにすぎないからだ。世の流れとは逆行するが、普遍的かつ個性ゆたかな文化を創造できる環境を整備していくことが急務といえる。

P.S.
 統一教会がらみの件が問題となっている。この際宗教団体そのものをつぶして行くべきだとの声もあがっている。霊感商法など庶民の自由と尊厳を奪い苦しめたのだから、メスを入れられても当然のことかもしれない。ところで、安倍元首相銃撃の事件が無かったなら、元統一教会のことがこれだけ再クローズアップしただろうか。いや、過去の事件として表面に上がることもなく、その後も現在に至ってもマインドコントールされて金を搾取された信者や関係者がいつづけただろう。同じことが、オウム真理教にも言える。地下鉄サリン事件という無差別テロが無かったなら、マインドコントールされた信者を救えることはなかっただろう。共通点は、「テロ」。テロ行為と関連あるとみるや本腰をあげるのである。何もなければ、庶民が、信者がどれだけ辛い思いや環境に置かれていたとしても、目を向けることはないのである。告発のための大儀を得るためといった理屈もあるだろうが、警察と同じで確たる事件としてあがらない限り摘発はできないものなのかもしれない。
 災難・事件を未然に防ぐのは難しいことだとわかる。この社会の思考・思想・信条の格差を正すにはいったんゼロベースにもどすしかない局面を迎えている。

2022.9.1

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いじめ隠ぺい事件から

 「報道特集」でふれられていたが、17年前の神戸市教育委員会によるいじめ隠蔽の事件。
 上に立つものが隠蔽工作するようであっては、当事者も子供も親も教職員でさえもうかばれない。結果的には上の者の都合のいいように改ざんされ、いじめの責任は、結局学校やだらしない教職員にあるのだとなるように世間の思考を謀っていく。上の者の逃げ道だけはしっかり作って投げ、うやむやにしていく構図は政府の「コロナ対応」と同じである。
 核廃絶というスタンスはとっているかにみせ、ウクライナやロシア、北朝鮮の動向から、日本も核を持ち抑止力を高めるべきという世論があがれば、機を得たり、水を得た魚のごとく核戦略を進めんとする空気を感じてならない。
 欺瞞に満ちた社会が、さらなる欺瞞をうみだしていく。人手不足と効率化・省人化をねらったコンビニなどのセルフレジが、逆に効率の悪い状況を生み出してしまう事例があがった。高齢者など操作に慣れていない場合、店員のサポートが必要となり、人件費を抑えた結果、少ない従業員でまわしているため、対応にあたる店員の業務負荷も高まってしまい、回転率も落ちてしまうということらしい。ここで、注視しなければならないのは、セルフレジ問題として目に見えてあがってきているものではなく、問題として浮かび上がらぬ問題のところである。スマホやインターネットでの決済が苦手な人はまだ、多くいるはずだが、販売側の生産者はこれを顧みず、消費者である購入側は、ほぼサポートのつかないところであきらめてしまう目に見えないケースがいくつもあるはずなのだ。便利と効率に勢いづく流れに、見落とされおいていかれる面に見えない水面下の問題。
 利点ばかりを宣伝文句として掲げ、問題点には蓋をしていく常套手段が幅を利かせて闊歩している。もどれない返しのついた一本道を。 

 予防することが難しい案件ばかりなのであるが、予防することが何より大事とされる諸々。いじめ、隠ぺい体質、霊感商法、防衛、業務過密化。何かしら問題が生じても乗った列車から飛び降りることができない。いや飛び降りることなど考えられない場所を既に走っているのだ。予防する方法も列車に乗る前のところを抑えるしかない。そのためには、教育が必要だろう。しかし、教育も列車に乗っている現状からみると、やはり難しい。対処療法的に個々の問題における予防法を講じることが精一杯であって、真実を見極める教育(「真理と平和を希求する人間の育成、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」教育基本法前文)を進歩や発展や利便性、合理化、効率化、経済成長にかまけて、根付かせていないのだ。
 乗ってしまったら船は引き返さない。自ら考え、判断し、企画し、創造する過程をじっくりと体現させる教育が強く望まれる。

     2022.8.30

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コロナ全数把握問題

 コロナ陽性判定となった際、重症ではなく基礎疾患もなく高齢者でもない場合、「HER-SYS」への入力は、患者本人が行うことになっていく気がする。自宅療養となった人はほとんどがそれに該当することだろう。コロナ患者の90%以上を占める中・軽症者。医療現場から保健所への「発生届」の届け出義務が緩和されるとはいえ、届け出が撤廃されたわけではなく、その義務を個人が負ったに過ぎなくはないか?詳細はわからぬが‥。
 全数把握については医療現場から保健所への公的義務が個にも移っただけで、おそらく全数把握は残るのであろう。ただ、医療現場は煩わしい「HER-SYS」への入力は限られたもので済むため、全てを報告する必要はなくなる。医療ひっ迫の中で、医療従事者にとっては助けとなろう。全数把握の必要性が論議されているが、筋違いではないのかと思う。「医療現場の業務軽減、およびその他多数の患者への診断の機会を増やすため、保健所への報告(HER-SYS)は患者各々でお願いします。」と言えばよいのに、医療現場の現状が、全数把握必要・不必要の論議の口実として、すりかえて取り上げられてしまっているかに見える。
 国や厚労省が全数把握を撤廃するはずはない。濃厚接触者を含む追跡が行えなくなってしまうからだ。のちに非難ごうごうたたかれるのを懼れる彼らがすすんで無くすはずはないのだ。よって、「医療機関からの要請もあり」を理由付けとして、地方自治体に運用をなげる形でとし、一方、感染者の把握については個人に報告義務としてなげられることを傍観するつもりなのだろう。
 全数把握緩和はなんのため。その問いの答えを解説する答え方がもやっとくもっているのである。
 杞憂で終わればいいが、このところの動向を見るにつけ、どうしても勘ぐってしまう。軸がぶれてないか?まやかしではないか?曲学阿世ではないか?変に大人ぶって(良識ぶって)ないか?そう感じ、また、戯言を書いてしまった。
2022.8.25

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青くさく

 どんなに馬鹿にされようと、大人も含めて青くさき意見を自信をもって発信すべきだ。

 青くさく生きることが現状を変える人の道だと思う。なぜなら、素直で正直という真実の姿を示す赤裸々な思いを唯一伝えられるからだ。

 青くさいと言われようが、それでいい。もっともっと青くさくあれ!

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中三女子 殺人未遂事件 に思う

 井の頭線神泉駅付近の路上で母娘を包丁で襲い、殺人未遂容疑で逮捕された中学3年の少女の事件。
 8/22 埼玉県戸田市教委の会見の様子が報じられた。内容は「報道以上の情報を得ておらず、逮捕された少女を特定できていない」とのこと。私はこの様子がどうにも不可解に思えてならなかった。なにゆえ会見を開いたのか?容疑者が誰かもわからぬ中で、会見を開くことに不信感を抱いてしまったのだ。
 勘ぐるならば、何かととやかく言われる前に先手をうって会見したと見える。市内の学校に対しては注意喚起と命を大切にする指導の方策を講じるよう指示する目的もあったと思われる。それでも「市教委としては、このようにやりましたので。」といった方便に聞こえ、ここでも世間体を一番に見て現場やその実態に関わる人の想いや真実は二の次かと想えてしまう。
 学校はさぞかし大変だろうと思う。夏休み中でもあり、直接の指導が中断されている中で、問われるのは「これまでどんな指導をしてきたのか。」であり、「予兆できるような様子はなかったのか。」である。普段の様々な場面で生命や安全に関わる指導は行われていただろうが、不登校生ということもあり、指導が届いていなかったと解釈されてしまいそうだ。言えないだろうが「学校ではこれ以上無理です!」というのが本音であろう。容疑者生徒は市内の塾に向かったが「もう頑張れない。」と塾には行かず、東京へ向かったようだ。
 学校の先生は大変です。アンテナはって、生徒の変異を見逃すことなく、夏休み中でも、不登校でも、家庭訪問などを行ったとしても塾へ行くところを張り込みまがいに見守らない限り、止められないだろう。親子の関係もあるだろうし、立ち入ったところへ踏み込まないかぎり未然に防ぐことは難しいのだ。世間はきっと、「ある程度立ち入ったところのそれやれよ!」って言うだろうし、「やらないより、やった方がいいに決まっている」という何の根拠もない通念から、仕事に組み込まれていく気がしてならない。きっと、これまでも学校はまったくやってないわけではないだろうし、これからもやっていくはずだ。ただ、道徳ひとつとっても、曲学阿世ととれる実施の在り方を改めるべきだ。
 「人を傷つけたり、悲しませたりしてはいけません。」と説いて、それを指導として子供が学び得たのであれば、子供たちが犯罪をおかすことはない。しかし、現実にはたくさんの未成年者の犯罪がおきている。何が原因か? 子供にとってピンとくる指導になっていないからである。「人を傷つけたり、悲しませたりしてはいけない」のは、彼らだって名目上わかっている。ただ、心に響いてはいない指導なのだ。法律や慣習もそうだが、指導も曲学阿世の徒に転じてきたように思われる。そういう教育の流れにあるのだから、改善するには相当の覚悟と決断が必要だろう。子供たちに「こうしなさい」では通用しないのだ。体現できるものとしてピンとくる指導を、学校だけでなく家庭も含め社会全体が認識しあえる環境づくりが求められよう。
 ピントがあってなかろうが、指導や施策というシャッターを押して撮りまくり、「これでよし」としてきたツケがまわってきた気がする。曲学阿世‥曲学阿世‥‥。
2022.8.24
 

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お祭りの高揚感

 お祭り好きの人類は、その高揚感から醒めることを嫌う。いわゆるイベントづけの日々を望んでいるのだ。昨今の動向から見ると、イベントのないことに不安を懐く状態にすでになっていると言える。
 イベントと言えば、五輪やワールドカップ・世界大会を始め、音楽フェスやフードフェス、カルチャーフェスなど、大規模なものを連想するが、わたくし世代でいうならば、盆踊りや花火大会、夏祭り。若い世代でいうならば、ハロウィンやコミケ。身近なところでは、フリーマーケットなどもこのイベントに含まれよう。多くのイベントが、コンサートやライブといった単一の催しから、複合性のあるフェス(フェスティバル=祭り)へと変貌しているように見える。
 フェスの特徴を考えてみよう。花火はある程度離れた場所からでも見ることは可能だが、盆祭り(盆踊り)など、その会場となる川岸や神社の境内に並ぶ露店が、いい言い方をするなら祭りの高揚感を高めているわけで、悪い言い方をすれば、あやかり商法(便乗商法)に支えられていると言える。花火があってこそ盆祭りがあってこその露店であるため、イベントが中止となると、便乗業者はさぞかしつらいことだろう。海水浴場の海の家や観光で成り立つ宿舎や仲介業者や土産物屋も天候や疾病によって受ける影響は甚大であるのも容易く想像できる。
 さて、フェスと化した我々を取り巻く諸々が鳴らす警鐘とは何か。オリンピックが解り易いだろう。競技大会としての本道はもちろん存在するが、現代のオリンピックは、これを取り巻く便乗商法化、いわゆる商業主義になってしまった。競技大会としての価値より商業的な価値の方が勝る結果となっている。確かにチケットを購入して競技を観戦するだけでは済むものではなく飲食店や宿泊施設があってしかるべきではある。しかし、やみくもにオリンピックにあやかって儲けようとする輩が増幅するとオリンピック競技そのものはお題目化し細ってしまう。商用化としての価値が競技の価値をはるかに上回ってしまうのだ。
 イベントで人を釣る。それが当たり前の世の中。お題目としてのイベント名で利益を得ようとする輩とそのおこぼれにむさぼる輩で創り上げたイベントに金を落とす庶民。アスリートファーストと銘打った2020東京五輪はまったくもってアスリートファーストではない末路をたどる。競技する者がリスペクトされる舞台がオリンピックであってほしいし、それを何のフィルターも付けずに観戦できる視聴者であることが望ましい。オリンピックは本来の意義を上回るほどの別の意義を纏ってしまったと言えよう。でもそれがオリンピックというものだと多くの人が思っている現在がある。確かに経済抜きにして様々のイベントを考えられる状態に戻れはしないだろうし、今後もやはりこうやって商業的価値の部分を膨らませつつ進んでしまうだろう。祭りの会場に露店がない状態が、逆に違和感と感じてしまうがごとく。それでも考えなければならない。本道にあるもの意義を。オリンピックという競技会が無ければ、取り巻きのあやかり群団は海の藻屑となるものばかりなのだ。
 泡の産物であるあやかり商法が現代経済のど真ん中に鎮座する。祭りの本道を一つの風物として己と同化し楽しむことを第一義とするべきだ。そのうえであやかり物の楽しみも加味していくことが大切かと思われる。
 祭りや各種イベントに限らず、世の中のものの捉え方というのは、本道はもうどうにもならんから、その副産物の出来でものの良し悪し、つまり価値を決めようとしている。「しようがない」が幅を利かせ戻る道を閉ざしていく。もちろん本道にある本質を振り返ることもなく。
     2022.8.22

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伏線 布石 暗示するもの

 体験・体現したことというのは、どこかに痕跡を留めるものである。
 たとえ今現在にあっては断片にすぎない意味の見つからぬものであったとしても、のちに大いなる繋がりをもつものとなって表出されることがある。脳裏にかすかに宿していたそれは、ある偶然を伴って開花するのだ。しかし、それがまったく頭の片隅にも残らず、消去されていくものだったとしたら、永遠に封印される以上の淋しさを感じてならない。
 多様化の波におされてか、習得すべき事柄が詳細かつ多岐にわたる現代社会。いろいろな障害をのりこえるすべ(スキル)が必要とされる。しかし、その実像はと見ると、個人が習得いや体験できる事柄なんぞ高が知れているため、自分が得意とする範疇以外は他に任せる仕様で成り立っているのだ。互いに苦手とする部分を補完しあう仕組みとみれば聞こえはよいけれども、自分の得意とするだろうところまで手離し、代行者に任せてしまう道筋となってはいまいか。つまり、依託(委託)体験でも自分の経験値として数え、疑似体験であっても立派な体験であるとしていると思えるのだ。煩わしく忙しい世の中にあって、自分の範疇外とする部分を支えてくれる諸々はありがたいものだが、えてして己の範疇とするところまでも、外部に任せて、自ら考えず、体感もない状態に置いてしまっている。それでも「支障が出ないならそれで充分、都合よし。」に人の思考がながれてはいないか。
 体験を介さずして組み立てられる理論をはじめとする諸々。そもそも体系としての学習とは自分が介さぬところで種別に積み上げてきた知識を学ぶことがほとんどであったから、昨今の教育の情勢からみれば、今更体験云々と言ったところで別段真新しくも映らないだろう。ただし、体験にあたらぬことを体験と称して施しているとは言えそうである。体験とほのめかす多くのものが乱立するが「こうすると効率的だよ」「こうすると簡単だよ」「こうすると味わえるよ」という How to に終始し、その真意を伝えることは稀だ。関数の入口に「知りたいこと」という引数を入れると、出口にあたる「答え」という戻り値が瞬時に出されることを称賛する世の傾向なのだ。いつしか人は、入口から出口までの間にあるブラックボックスといわれる処理の過程を体現しなくてもよいかに捉えてしまった。”思考錯誤し、考え、処理する”最も大事なステージをすっとばしてしまったに等しい。
 喜びであり、悲しみであり、楽しみであり、辛さであり、ひらめきであり、忘却であり、人間くささの渦巻くこのステージでの体験が次への扉を開く鍵となる。ブラックボックスに蓋をして封印してはならない。そこでかいた汗は無味乾燥・無色透明ではないと言いたい。発見や発明・発想というものは、いきなり自分のところに降りてくるものではない。言い方を変えるならば、いつも降り落ちているにもかかわらず、それに引っかかる経験を有しておらず、滑り落ちるように見過ごしているだけなのだ。だから、ブラックボックスでうごめく人の営みは何にもまして大切なのである。良きにつけ悪しきにつけ経験したことからのみ物事の真髄を学ぶことが可能なのである。
 伏線にも布石にもならない体験であってはならない。思考錯誤の中で潜在意識にこびり付いて残るそれを、何気ない日常で確かな経験として活かせるようにしていこう。人は生命維持装置をつけて生かされるルーティーンから能動的に生きるルーティーンへとリチェンジしていかねばならない。失敗であっても確かな経験であった種として残っているならば、いずれひらめきによって花開くこともありえよう。
 2022,8,12

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本質を見ずしてなびく風見鶏

(マウントをとることに終始する社会に抗う)

 政治家と統一教会の関係が取り沙汰されているが、ぶっちゃけその本質は、お互いが相手を利用して利益を求めるwin-win(ウィンウィン)で繋がっているだけということだ。政治家からすれば選挙で勝つため。宗教団体からすれば、信者獲得・資金拡充、政界への勢力浸透、団体の権威を高めるためとなる。理想や信念、ポリシーなんぞは欠片も見当たらないのが現代なのだ。お互いの利益を生むところだけに集い、Win-Win であることを着地点にしている。お互いを理解しあうことはなく、お互いが利用しあう関係だけで結ばれているのだ。
 森友学園問題にしても、開設予定の小学校の名誉校長に安倍晋三元内閣総理大臣の妻・安倍昭恵夫人が就任していたが、森友学園(籠池氏)側からすれば、昭恵夫人というよりか安倍首相の名を借りたかったにちがいないし、お墨付き狙いと言えよう。安倍夫妻が鑑定評価の14%(1億3,400万円)にあたる土地売買契約に関与したかは定かではないが、売却側の近畿財務局に何らかの忖度がはたらいたとは想像できる。
 政治家と宗教団体および教育関係機関との疑惑。どちらも一般庶民のマインドをそれとなく既成事実にみせて牛耳る目的として利用される。真相は何かなど問題ではないのだ。ただ確約という名の称号がほしいだけなのである。なにかにつけてうやむやとなる世を見て思うのは、真相・真実・理想・信念・信条、つまり本質とはどれだけかけ離れたところで人ははしゃいでいるかということだ。はしゃぎ方もよくない。情況を見て、勝組にいると認識できれば、弱者を徹底的にたたく。分が悪くなれば、煙に巻くか逃げる。一般庶民とて、どちらに乗っかった方が得策かとはじき、主流となるだろう方の肩をもつ=マウントをとる。このいつもどおりの陳腐で変わらぬレベルのステージで参戦するのが今のトレンドなのだ。
 「よくわからないけど、お互いがWin-Winならいいんだ。」とか、「相手より優位にたてばいいんだ。」というマインドが主流になりつつある今、抗うものはその風潮だ。

 リスペクトすべきものをディスリスペクトしていくかに見え、本質の素晴らしき面をぼかして進み、残るものは相手よりは優位にたてたよなというしょうもない自己満足。リスペクトするレベルを無理に高く置いて、わからぬものを生み出してはいまいか。リスペクトすべきレベルは自分より低くあるものと認識した方がいい。地球や自然、己を取り巻くものに対して敬意を払う本質的な思いがあれば、地球温暖化からくる異常気象やら紛争やら食糧難やらという現代を創り出しはしなかったと思う。誰もが自分自身をリスペクトされる対象にあらんとしているところに問題がある。ないがしろにされた自然や低きに置かれた民が牙をむくのもわかる気がするだろう。人類が本気で抗うものは、本質とかけ離れたところに答えを見出さんとしてきたマインドにあるのだ。
2022.8.7

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