無の累積

 病と別の病との合併症を防ぐために無菌状態の環境に置かれることがある。怪我をしたって絶対安静を強いられることもある。それ自体は致しかたないことである。その後、回復が見込まれる状態になったときに待っているのはリハビリである。自分の力で免疫力を高めたり、機能回復を目指す行為といえる。思うに、生きていく中で我々は、病とは言えないくらいの病にかかったり、大怪我とは言えないほどの怪我をして、その都度リハビリとは言えないけれども、回復・改善することをささやかながらも繰り返し続けている。それはある意味自然なことであり、大切な営みでもあろう。
 AIは必ずや正解を導くものであるという幻想を人々に植え付け、それを利用して進む世の様はあまりに滑稽である。若者が「ネタばれ」を容認する方向性にあるところにそれは見て取れる。結果が解れば、安心できる。でないと、どうなるかわからないことにはらはらしたり、不安を覚えたりするため、貴重な時間を無駄にすることになるからだ。繋がりや伏線、実感という感覚はもはや必要はなく、答えが解ればそれでいいらしい。時短と合理性こそがトレンド。答えに辿り着く必要最小限のものだけあればいいのだ。極端な言い方をしてしまったが、方向性としては間違いなくそのながれにあろう。
 Aであれば、A’を選択する。BであるときはB’を選択するという決まりきったこととして隙間なく理論で埋め尽くしていくことが彼らの面倒くさくないと思える処世術なのかもしれない。悩むという無駄な行為を人生というビジネスシーン全般で行わないようにしているかに見える。煩わしく思えるところは、AIや機器や他人が請け負ってくれるならすべて任してしまおうとする志向だ。バーチャルリアリティで堪能できるならそれがGoalでそれでよしとするかのようだ。言いかえると、おいしいとこだけにしてつまみ食いし、負のところは、代行者に任せるのが現代社会の在り方だと感じてしまう。
 多忙ゆえにいちいち細かいところにこだわってはいられないのはわかる。今回の知床観光船事故について橋本氏がテレビで言っていた。行政の監視指導体系を強化し、事故を起こさせないようにしなければならない。全ての杜撰な違反を検挙するには、マンパワーが足りない。だからこそAIやITでシステムとして管理規定や運営義務を統一明確化していく。それでも全ての杜撰な状況を挙げられないが、抜き打ちで行う交通違反取締のようにサンプルを検挙する形でもチェックする機能を国や地方行政が持たない限りダメだと。
 負の方面の(悪いとされるところを是正する)対策としてルールが次から次へと産み出されていく。その全てを人が施行するのは無理であるから、AIを使ってでもサンプル検査化するでも合理的に判別し、人々に流布できる形にするべく進んでいるのだ。法を設けたから行政の責任がなくなるわけではないのだが、粛々とその方向へ向かうであろう。

 無限に膨張し積み上げんとする管理規定。それを謀る無の累積。安全にまさる人生の正しき生き方は無いのか? 安全=平和 とするなら、平和を掌る国際法とて掌握できない現代が浮き彫りにされる。大人だから、間違いを繰り返すことのないよう、きまりという機構を作っていくのが当然の考え方だ。そうかもしれないが、子供がないがしろになっているのは否めない。大人であることを望まれる世の中にあって、感情を抑制・制御することなく子供の心を持って生きる術を無にしてはならないと思う。なぜなら、大人ぶった論理至上主義に陥っているからだ。多様性を推奨しながら少数派を排除する現代。そのシステムの中にある論理はご都合主義にすぎない。なにか無意味なものに目を奪わされている気がしてならない。

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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