都合という呪縛 part3

 どうにもならないことかもしれぬが、どうにかしないとならない。
 そうは思いはすれど、どうすればいいか分からないという負のスパイラルに陥る。結局ながれ流されて奈落に落ちる。

 悪循環を繰り返すという悪循環。個人を含む社会という世間は、都合のよいところだけを拾い、他は削除していく。まるでノイズリダクション機能のようだ。悪循環につけ込んで、「どうにもならないのだから、これはどうですか?少しは役に立つでしょう。」と混沌とする人の心理につけ込んで搾取するかのように儲ける輩が暗躍する。合理化に見せかけた無駄を堅持させて上澄みをさらう算段といえる。

 混沌とする情勢にコロナが拍車をかけ、合理化こそが脱却の道という言質を得たかの現代は、意味があるか分からないことはすべて無駄というレッテルを貼る。無駄にのまれさせられわらをもつかむ思いでいる庶民をさらに深い闇へと勧誘する。

 横領・詐欺などをはじめとする欺き騙す手法の犯罪がニュースとなっている。また、ノーベル平和賞のメダルがオークションに出され140億円で落札されたニュースも飛び込んできた。ウクライナ避難民支援に使われるとのことで、それ自体は称えられるべきで責めるものではないが、メダルそのものの価値が140億であるはずもなく、付加価値がついたとはいえ、落札した人はそれを手にして、自分がとったノーベル平和賞でもない付加価値をどうとらえるのだろうか? 言えることは、元々の価値にさまざまな付加価値を施して殻の厚みを増していくことで成り立つこの世界の現状があるということだ。レトロな玩具が高値で取引される。手に入れた人は、転売を意識しない限り付加価値に見合う満足を得ているのだろうからそれは十分理解できる。しかし、平和賞を受賞したメダルに関しては、それを落札し手に入れたことが、その人にとってどんな付加価値があるのだろうかと疑問に思った。わが国では、オリンピックの聖火トーチの高額転売横行も話題になった。
 本質をはるかに上回る付加価値をつけること。そのステージ上で楽に相場を吊上げるところにビジネス性を見出すことが、現代の常識なのかと感じてしまう。楽して膨らませて儲ける。泡の産物。バブル経済の成れの果て。信じられる本質には、金額のつかない尊い価値がある。ただ、金にならないなら歯牙にもかけない。
 物々交換から始まったであろう人間の経済観念は、金(かね)という代用物を産み出していった。さらに、レート(交換相場)を設けたり、株なるものを産み出した。次々と実体のない泡を膨張させていったのである。仲介するところでなおも膨らみ、そこで生活することを人は委ねてしまった。
 10億円給付金詐欺で思うことは、あの当時本当に困っていた飲食店に給付金がまわっていたのかということだ。詐欺目的で申請を行うのならば、何の憂慮することもない0から始まるので、必要とされる書類を機械的に揃えて出せばいいので気楽である。ところが、本当に困っている店は、店を閉めるか閉めないか、偽ったことを書いたら申請が通らないかもしれないとか、厄介な申請書類を揃えなければならず、そもそも店を続けられる見込みが立たない中で、従業員の生活を考える等、苦慮することが数多あるわけで、決して気楽にしてはいられない。審査する側は、いちいち店の現状を足を使って確認し、判断をくだせるほどのマンパワーが存在するわけではない。その結果、書類というアバターで判断することとなる。給付金の仕組みを知っている者をうまく取り込めれば、不正に給付金を搾取するこも容易かったのであろう。本当に困っている店は、給付金の仕組みを知っている者を雇う余裕などないのだからさらに困窮するという仕組みだ。

 無駄であるとされるものの中に息づく人の生活のほとんどがある。たしかに今は役にも立たない無駄なものかもしれない。そう、我々の生活はほとんどが無駄の積み重ねなのである。しかしその無駄なことを体感しているからこそ、どこかで輝きを放っつたり、つながりを感じさせたりするのである。無駄だと体感せずに捨て去ってしまえば、のちに花開くことはないのである。現在の無駄だとして次々と捨て去る風潮は危険をはらんでいるとしか思えない。

 人の都合やら良識ぶった合理性の塊の理屈やらアバターやら己の体感できないものばかりに取り囲まれて生きている世界。針路を変えろ!今ならまだ間に合うかもしれない。

 
 
  

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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