価値観と本質によせて

 大切なものを見落としつつ、次から次へと不誠実に不確実なものを組み上げてきた現代。大切であるという伏線さえも回収されることがないよう闇に葬られてしまう。これが繰り返されながら徐々に膨張する悪しき慣例は、今や現代社会に堅固に根付いてしまったようだ。
 本質に帰ることがない。善良なイベントであっても、そこにむらがり、どこに金が産まれるかと物色する輩で盛り上がってしまう。結局、とりまきにある個々の新手の産業によって食いつくされてしまい、大元(本質)の輝きを顧みないで終わってしまうのだ。

 ところで、自分自身の価値観について考えてみよう。価値観とは長い年月をかけて構築されるものとみえるが、実はその根源は浅いところにあると思っている。それは、幼いころに自分の感性で素敵だと感銘した光景に回帰する。
 しかし、現代という情報過多な時代にあっては、自分の感覚、いや、価値観は作られた既成の価値観で埋め尽くされてはいまいか。数多の情報が不確かな価値観を作り上げてしまい、おのれの善しとする価値観とすり替えてしまう。自分の価値観は本当に自分がいいと思っているものなのか。他人や周りや世間や社会が、是とする既成の価値観を自分の価値観だと置き換えているだけではないのか。そんな疑念がふつふつと沸いてきてしまう。
 長年教育に携わってきたが、振り返ると、子供たちが自分自身の価値観を育むように我々が努めてきたとは言い難い。小学校の時から、どこにだしても恥ずかしくない大人とするべく急かすように大人の価値観を押し付けてきた気がする。子供には子供にしか体現できない感覚があるはずで、えてして大人は「そんなものにかまけてないでこうしなさい。」と道筋を定めてしまうことがほとんどだ。
 今の生徒を見ていると、時短、便利、という合理性にみあう価値観に覆いつくされてしまった。たしかに「エモい」といった若者世代の新たな感覚・価値観もあるにはあるのだが、安直に結果を得ることこそが何よりも重要な価値として根付いてしまったようである。「なるほど」と納得することさえ無駄な時間として捉えられ、結果として「なるほど」は死語となっていった。結果や答えを早くつかむことが関心事であって、真実や本質なんぞは二の次の次になっている感は否めない。
 岡本太郎氏が「青空」という評論の中でこう述べていた。「芸術の天地はそのエッセンスだ。だれでもが当たり前のこととして見過ごしている世界に目を凝らし、瞬間瞬間に発見し、驚きを開いてゆく。それが芸術の役割である。科学だって、対象の世界こそ違うが、同様に新鮮な目によって発展していく。―<略>― 素朴に、無邪気に、幼児のような目をみはらなければ、世界はふくらまない。」と。
 子供が発見と興味をもった時、子供が自分の価値観へとつながる真髄に迫る前に大人はそれを取り上げてしまう。彼らの大事な時間をじっくりと自分自身で育ませることが求められる。そうでなければ、信念のない既存の価値観を纏うことが必至であろう。

 自分を認めてもらえるところがないと前に進めない強迫観念から、自分の価値観から逸れたところで結果を掴もうとする。学業いや受験もそうであろう。まずは、認めてもらえる土台を形成したいのだ。何を学びたいのか、探究したいのかという本質に近い部分より、合格することがなにより重要であり、そこをゴールにさえしてしまうことも少なくない。説得力のある自分の価値観に裏打ちされた理念作りを目指してほしく思う。

 既成概念という固定観念=価値観を植え付けられた民衆ばかりになることを喜ぶ者は誰なのか。そんなことばかり考えてしまう現代とはなんなのか。

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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価値観と本質によせて への1件のコメント

  1. 寝不足のカズト のコメント:

    「時短」とか「タイムパフォーマンス」とかいうZ世代がもつ概念について私見ですが、世の中にモノが溢れている状況も原因の一つかなと思っています。Z世代とのジェネレーションギャップを語るときによく持ち出される話にこんなものがあります。彼らはアニメや映画、ドラマを視聴するときに倍速で視聴するそうです。限られた時間でより多くの作品を消費したいということなのだそうです。要はホテルのビュッフェみたいなもので、目の前に沢山の料理があったらとにかく手当たりしだいに多くの料理を消費しないと気がすまず、逆にどれか食べ忘れでもしたら損なように思えてしまうのでしょうか。記事にある「結果や答えを早くつかむことが関心事であって、真実や本質なんぞは二の次の次になっている感結果や答えを早くつかむことが関心事であって、真実や本質なんぞは二の次の次になっている感」はそんなところからくるのかなぁと思います。
    モノが溢れて表面上は豊かになった反面、それを味わう心の余裕もなく、ビュッフェに初めて来たような貧乏性丸出しの人たちが表面をさらっとなぞって大量消費した気になっている現状があるのだとしたら、これは怖いことだと思います。モノだけでなく人も溢れているのが現代ですから、子どもの成長にしても「○○の点数が○点上がった」とかいうようなことで安易に成長したと判断して人間性に向き合うことなく卒業させていくドライブスルーのような教育現場に変わっていってほしくないなぁと思います。
    色々と飛躍もしましたが、記事を拝読した際に「最近自分が感じている違和感はこれか!」と感動したのでコメントさせていただきました。

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