現在の様相

―山口阿武町コロナ給付金振り込みミスに見る現代の様相―

 あなたの口座に4600万振り込まれていたらどうします?
 「誤送金なんだろうから返します」が正解とされる現代。「田口容疑者は自分でも言っているとおり犯罪だとわかっていて流用したのだから100%彼が悪い」とされるところに私は疑問を感じえてならない。しかも、その挙句、訴訟の弁護士費用と数々の迷惑や被害をもたらした罪などをも被せる勢いである。「こうならないよう気を付けよう」と教訓としては残るが、「そうなの?」という疑問は依然として残る。

 たとえ自分の口座に4600万振り込まれていたとしても気づかないだろう私が、もしそれを知りえたとしたら、宝くじでも当たった気分になると思う。でも、「間違いだなこれは」とわかれば返還するだろう。「ただし、何か言ってくるまでは夢を見させてもらうよ」という邪念は確実に残る。

 兼好法師の徒然草に「神無月のころ」という段がある。この一説を思い出してしまうのだ。柑子の木の周りを盗られまいと厳重に囲っていた住人の様相に、法師は最後に「この木がなかったらよかったのに」と結ぶのである。柑子の木が初めから無ければ、ここの住人が盗られまいとする物欲をおこすことも、しみじみとした風情が台無し(興覚め)になることもなかったと言うのだ。

 話を戻すと、田口氏は「神無月のころ」の住人であるに過ぎない。田口氏に変な物欲めいた所作へと導いたのは間違って送金してしまったところにある。誤送金がなければ、こんなことにはならなかったはずなのだ。柑子の木が枝もたわわに実をつけなければ、物欲を起こすこともないが、諸悪の根源、「柑子の木」がなければ、実をつけることもなくよかったのである。しかるに柑子の木あらため金のなった木を与えてしまった。諸悪の根源を田口氏は掴まされてしまったのである。田口氏がすぐに返還していれば、こんなことにはならなかったのは確かだが、その時、誤って送金してしまった事実を阿武町が公表したかは疑わしい。だって、その際は一方的な非難を町がうけることが必至だから。
 ワイドショーやニュースで話題となっているが、「へたなことは言わない(批判を受けることは言わない)」というのが、常套となっている。政治家や吉野家幹部のしょうもない失言が輪をかけているとはいえ、本音が見えづらくなっている(本質が見えない)のは確かである。大人の社会はじっぱひとからげに曲学阿世(きょくがくあせい)の徒ばかりにならんとしている。
 教育としてこれは良からぬ。大人の逃げの論理が正当化されていく中で、本質や真理を追究する道筋が途絶えてしまう。大人だからまぁしようがないかと思えても、子供の心を説得できはしない。何かしでかしてしまった子供が釈明の余地なく潰されていくのは、「少年の日の思い出」の僕と一緒である。事象ばかりを追いかけ決し、情状をないがしろにする指導へいざなわれる学校で、本当の善悪や愛や慈しみを享受できるのか不安でならない。ダメ人間はさらなるダメの烙印をあてられるだけなのかもしれない。

 人はわかってほしいところをわかってもらえれば、牙をむかずに済むものだと思う。それが形式的で真摯でないことが多いため大きな溝を生んで決裂してしまう。世の中の戦争を含む事象もそんなところにあるのだと思う。心を大切に育むことが、未来への希望をつなぐ。

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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