人類の都合

 生態系の頂点に立つと自負する人類。人類にとって役に立つものを構築していくことが進歩だと信じてきた。
 地球温暖化をはじめとする環境破壊の原因はおもに人類によるのもだと分かっていても、今いる層を降りる気配はない。同じレイヤーに留まったままであれやこれやと御託を並べて傍観する。人類にとって都合の良い状態が地球にとっても良いと当たり前に思えてしまう傲慢さはかなり根深いものと言える。
 「対岸の火事」として、自分に影響が及ばぬ限りは、高をくくって、深刻に受け止めることはない。自分の身を案じる情況になって慌てるのである。もうその時には取り返しのつかない状態となっている事が多いと思われる。「他山の石」として受け止める寛容さと冷静さに欠けるのだ。
 格差社会は持てる者と持てぬものの分断を生む。最終的には、どちらに属するかラベリングされる傾向だ。

 安倍元総理が撃たれた。口をそろえて「民主主義に対する冒涜である」と岸田総理や岸防衛相やテレビの解説者が述べている。選挙戦の最中であるところから、「選挙という民主主義の根幹を汚された」「暴力という蛮行で国家を覆す行為は断じて許すことはできない」ともいう。
 確かに選挙が民主主義をつかさどる大事なことではある。しかし、民主主義を倒すべく行われた蛮行であるとするには疑問が残る。選挙期間中を狙うということは民主主義に対する挑戦であると捉えている節が政治家を含めた社会に強いようだ。選挙で勝つことが政治家にとって最も大事なことであって、勝てば「人々の支援が得られた。すなわち民主主義なのだ。」としたいのだろう。選挙で勝ったものは、多数の支持を得た多数派として、多数派の都合で少数派を潰しにかかるだろう。それも民主主義だとして。
 容疑者宅を爆発物処理班が捜索するようだ。その物々しさはまるでテロリスト扱いである。選挙応援活動を止めずに最終日も行うとした茂木幹事長は「暴力に決して屈しない」という姿勢をみせている。容疑者が何の目的で安倍元首相を殺そうと思ったかもはっきりしない中で、テロ・国家転覆・クーデターの主犯格としてまつりあげられている気がしてならない。組織的な犯罪と見ているのか、90名の捜査員を動員しての捜査本部が立ち上げられた。確かにあり得るかもしれぬが、そうである方向へしたてる意向がはたらいている気がしてならないのだ。弱者としての怒りが凶行に駆り立たせたかもしれないのに。暴力とまではいかずとも、暴力に近い上位者の権威によって弱者はこれまで辛酸をなめてきたというのに。森友・加計問題、公文書改ざん問題、桜を見る会問題‥‥。力でねじ伏せて民意に背いてきたのは強者である彼らである。法治国家やら民主主義やらと聞こえのよい言葉をまいて煙にまこうとせんとするかに見える。政治家からすれば、選挙が民主主義の根幹かもしれぬが、一般庶民から見れば弱者をも切り捨てずその気持ちもくみ取ることに尽きる。強者の言論であろうが、弱者の言論であろうが、とにかく暴力で言論を封じこめることはあってはならない。それこそが民主主義の根幹である。ただし、弱者の言論については意図的につぶされたり、改ざんされたりしてきた経緯があるのは事実だ。政治家の言う民主主義と一般庶民の想う民主主義とには、大きな温度差があると言える。

 持てる者(強者)は、持てぬもの(弱者)との境界線を明確にしていく。弱者には不穏当なラベリングがなされ、レッテルへと昇華させていく。強者の都合こそが人類の都合だとさけんでいる。弱者をはじめとする自然界に類するもの全ての都合と鑑みる必要性を感じてならない。この病んだ世の中にさらなる思い上がった意向を積み重ねていってはならない。要人に充てる警護は今後さらに強化されるであろう。それが、強者の都合だからである。金も神経もつかって進むであろうその流れは、決して弱者の都合にそぐうものとは言えない。

 2022.7.8

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都合という呪縛 part3

 どうにもならないことかもしれぬが、どうにかしないとならない。
 そうは思いはすれど、どうすればいいか分からないという負のスパイラルに陥る。結局ながれ流されて奈落に落ちる。

 悪循環を繰り返すという悪循環。個人を含む社会という世間は、都合のよいところだけを拾い、他は削除していく。まるでノイズリダクション機能のようだ。悪循環につけ込んで、「どうにもならないのだから、これはどうですか?少しは役に立つでしょう。」と混沌とする人の心理につけ込んで搾取するかのように儲ける輩が暗躍する。合理化に見せかけた無駄を堅持させて上澄みをさらう算段といえる。

 混沌とする情勢にコロナが拍車をかけ、合理化こそが脱却の道という言質を得たかの現代は、意味があるか分からないことはすべて無駄というレッテルを貼る。無駄にのまれさせられわらをもつかむ思いでいる庶民をさらに深い闇へと勧誘する。

 横領・詐欺などをはじめとする欺き騙す手法の犯罪がニュースとなっている。また、ノーベル平和賞のメダルがオークションに出され140億円で落札されたニュースも飛び込んできた。ウクライナ避難民支援に使われるとのことで、それ自体は称えられるべきで責めるものではないが、メダルそのものの価値が140億であるはずもなく、付加価値がついたとはいえ、落札した人はそれを手にして、自分がとったノーベル平和賞でもない付加価値をどうとらえるのだろうか? 言えることは、元々の価値にさまざまな付加価値を施して殻の厚みを増していくことで成り立つこの世界の現状があるということだ。レトロな玩具が高値で取引される。手に入れた人は、転売を意識しない限り付加価値に見合う満足を得ているのだろうからそれは十分理解できる。しかし、平和賞を受賞したメダルに関しては、それを落札し手に入れたことが、その人にとってどんな付加価値があるのだろうかと疑問に思った。わが国では、オリンピックの聖火トーチの高額転売横行も話題になった。
 本質をはるかに上回る付加価値をつけること。そのステージ上で楽に相場を吊上げるところにビジネス性を見出すことが、現代の常識なのかと感じてしまう。楽して膨らませて儲ける。泡の産物。バブル経済の成れの果て。信じられる本質には、金額のつかない尊い価値がある。ただ、金にならないなら歯牙にもかけない。
 物々交換から始まったであろう人間の経済観念は、金(かね)という代用物を産み出していった。さらに、レート(交換相場)を設けたり、株なるものを産み出した。次々と実体のない泡を膨張させていったのである。仲介するところでなおも膨らみ、そこで生活することを人は委ねてしまった。
 10億円給付金詐欺で思うことは、あの当時本当に困っていた飲食店に給付金がまわっていたのかということだ。詐欺目的で申請を行うのならば、何の憂慮することもない0から始まるので、必要とされる書類を機械的に揃えて出せばいいので気楽である。ところが、本当に困っている店は、店を閉めるか閉めないか、偽ったことを書いたら申請が通らないかもしれないとか、厄介な申請書類を揃えなければならず、そもそも店を続けられる見込みが立たない中で、従業員の生活を考える等、苦慮することが数多あるわけで、決して気楽にしてはいられない。審査する側は、いちいち店の現状を足を使って確認し、判断をくだせるほどのマンパワーが存在するわけではない。その結果、書類というアバターで判断することとなる。給付金の仕組みを知っている者をうまく取り込めれば、不正に給付金を搾取するこも容易かったのであろう。本当に困っている店は、給付金の仕組みを知っている者を雇う余裕などないのだからさらに困窮するという仕組みだ。

 無駄であるとされるものの中に息づく人の生活のほとんどがある。たしかに今は役にも立たない無駄なものかもしれない。そう、我々の生活はほとんどが無駄の積み重ねなのである。しかしその無駄なことを体感しているからこそ、どこかで輝きを放っつたり、つながりを感じさせたりするのである。無駄だと体感せずに捨て去ってしまえば、のちに花開くことはないのである。現在の無駄だとして次々と捨て去る風潮は危険をはらんでいるとしか思えない。

 人の都合やら良識ぶった合理性の塊の理屈やらアバターやら己の体感できないものばかりに取り囲まれて生きている世界。針路を変えろ!今ならまだ間に合うかもしれない。

 
 
  

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現代の様相 part2

 対処療法(対症療法)で済むものが現代にどれだけあるのだろうか?きっと、もう存在しないのだ。それくらい関係が入り組みこんがらがってしまっているものばかりだ。地球温暖化・異常気象問題、コロナ感染、ウクライナ問題、ロシア・北朝鮮・中国問題、米軍基地問題、核廃絶問題、原発事故問題、KAZU1知床観光船問題、阿武町誤送金問題、高齢化社会・年金問題、格差社会問題、経済、いじめ・ハラスメント・ストレス化社会問題、教育問題‥‥。前進改善されたでしょうか? 実感として感じとれないのが実態ではないでしょうか。
 これまで特効薬を作り上げることで処置することを競ってきた社会構造であったが、それも効果がみこめない時代へと移りかわった。それぞれが単独の問題ではないのだ。一つの考え方として、ある事柄だけに効く特効薬を作り、その問題を解決すれば、他の問題の解決にもつながるというのもあるだろう。つまり、一個一個丁寧に解決していく方法だ。しかし、時代の流れに追いつかなくなった。とりあえず、なんとなく白黒つけて決着としていく。それが常套手段となっていった結果、振り返ってみると「だからどうした?」「何が改善された?」という思いばかりが溢れだす。その繰り返しなのである。一つのことばかりにかかわっていられない多忙な社会。抱えきれない問題過多な社会。真実や本音とはうらはらの信憑性のないロジックをなぞらねばならない社会。「なるほど!」が消えた社会。散りばめられたギミックにはまり、トリガーを引かざるを得ないロジックへと誘われる社会。スマホを与えられて、学問も買い付けも支払いも全てをその範疇で賄わんとするかの社会。

 リアルな生活空間に実感のある生活実態を求めたい。教育ではIT機器を合理的に理解・認識する手段として用いられる。整理・分別して理解の手助けにするというものだ。処方箋には、それぞれの病ごとの多々の薬を書くのではなく、根源的な汎用性のあるオールマイティな薬を煎ずるべきだ。万人が受け入れられるところまで次元を下げた人間の処方箋=道徳心を描くということである。難しいものを難しく考え深く難しい答えを出すことで実感から遠ざかっていく思考を、難しいものを簡素で実態もあり実感の伴うところで決着をつける思考へと戻す勇気が必要かと思う。

2022.5.30

 

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現在の様相

―山口阿武町コロナ給付金振り込みミスに見る現代の様相―

 あなたの口座に4600万振り込まれていたらどうします?
 「誤送金なんだろうから返します」が正解とされる現代。「田口容疑者は自分でも言っているとおり犯罪だとわかっていて流用したのだから100%彼が悪い」とされるところに私は疑問を感じえてならない。しかも、その挙句、訴訟の弁護士費用と数々の迷惑や被害をもたらした罪などをも被せる勢いである。「こうならないよう気を付けよう」と教訓としては残るが、「そうなの?」という疑問は依然として残る。

 たとえ自分の口座に4600万振り込まれていたとしても気づかないだろう私が、もしそれを知りえたとしたら、宝くじでも当たった気分になると思う。でも、「間違いだなこれは」とわかれば返還するだろう。「ただし、何か言ってくるまでは夢を見させてもらうよ」という邪念は確実に残る。

 兼好法師の徒然草に「神無月のころ」という段がある。この一説を思い出してしまうのだ。柑子の木の周りを盗られまいと厳重に囲っていた住人の様相に、法師は最後に「この木がなかったらよかったのに」と結ぶのである。柑子の木が初めから無ければ、ここの住人が盗られまいとする物欲をおこすことも、しみじみとした風情が台無し(興覚め)になることもなかったと言うのだ。

 話を戻すと、田口氏は「神無月のころ」の住人であるに過ぎない。田口氏に変な物欲めいた所作へと導いたのは間違って送金してしまったところにある。誤送金がなければ、こんなことにはならなかったはずなのだ。柑子の木が枝もたわわに実をつけなければ、物欲を起こすこともないが、諸悪の根源、「柑子の木」がなければ、実をつけることもなくよかったのである。しかるに柑子の木あらため金のなった木を与えてしまった。諸悪の根源を田口氏は掴まされてしまったのである。田口氏がすぐに返還していれば、こんなことにはならなかったのは確かだが、その時、誤って送金してしまった事実を阿武町が公表したかは疑わしい。だって、その際は一方的な非難を町がうけることが必至だから。
 ワイドショーやニュースで話題となっているが、「へたなことは言わない(批判を受けることは言わない)」というのが、常套となっている。政治家や吉野家幹部のしょうもない失言が輪をかけているとはいえ、本音が見えづらくなっている(本質が見えない)のは確かである。大人の社会はじっぱひとからげに曲学阿世(きょくがくあせい)の徒ばかりにならんとしている。
 教育としてこれは良からぬ。大人の逃げの論理が正当化されていく中で、本質や真理を追究する道筋が途絶えてしまう。大人だからまぁしようがないかと思えても、子供の心を説得できはしない。何かしでかしてしまった子供が釈明の余地なく潰されていくのは、「少年の日の思い出」の僕と一緒である。事象ばかりを追いかけ決し、情状をないがしろにする指導へいざなわれる学校で、本当の善悪や愛や慈しみを享受できるのか不安でならない。ダメ人間はさらなるダメの烙印をあてられるだけなのかもしれない。

 人はわかってほしいところをわかってもらえれば、牙をむかずに済むものだと思う。それが形式的で真摯でないことが多いため大きな溝を生んで決裂してしまう。世の中の戦争を含む事象もそんなところにあるのだと思う。心を大切に育むことが、未来への希望をつなぐ。

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核シェア⁉ ふざけるな!

 毎回過激なことを書いていると自覚はしていたが、世の中がここまで自己防衛(自己の都合優先)の風潮が常態化してくると、叫びをあげずにいられない。
 北朝鮮がミサイルを放っていたころ(2017.10.26) 麻生太郎副総理は自民党が大勝した衆院選結果について「北朝鮮のおかげ」と述べた。その真意は北朝鮮がミサイルを発射してくれたおかげで、国防への人々の意識が高まり、改憲・防衛に寄与する自民党が勝ったということである。国政選挙が迫ると国民の意識をあおるかのように出されるJアラートのテストがその流れを汲んでいるかに見える。
 今回は北朝鮮はおろか、中国の領海侵犯、そしてロシアの核攻撃という脅威の風を利用してか、安倍元首相が言及した核シェアリング。
 人々の弱みにつけ込む形で(個々の都合につけ込んで)自ずと誘引される感覚へと誘おうとしている。やっていることは、ロシアと何ら変わりはない。同じ穴の狢と思える。

 核の傘下で成り立つ平和が理想とする平和なのか?核シェア⁉ふざけるな!
 また、沖縄にでも核を配備せんとするのか⁉

 どう考えてもおかしいこと、矛盾することを人の弱みにつけ込んで正当化していくのが当たり前となってしまった。この状況を子供や学生にどう教え、説明するのか。「やられないように核を持つべきだよね。場合によっては先制攻撃で敵基地を破壊する能力を持つべきだよね。」と、プロパガンダするのか。
 国民の多くは、どうすべきかはっきりわからない。どうにもならない。だから、そう言うのならそれでいい。という委託するかたちで自己の保身(自分が都合の悪い状態にならないよう)に進んでしまう。

 何度も言うが、世界が核の傘と言うベースで平和を考えることをやめない限り、永久にこの状況は変わらない。空気(風)で世を支配しようとするものに対抗するには、理想の風で地球全体を包むしかない。理想とは、人間同士だけではない自然を含めた共生の意識である。戦略やらプロパガンダやらと対する者に打ち勝つために用いるメソッドばかりが先行して図られる世界の情勢。人の心を奪えば勝つことが約束された世界の情勢。人間以外のものから見れば、何の意味も持たないものなのだ。言葉で表現できない自然界の諸々は「破壊しないで、共有しましょう。助け合いましょう。」と叫んでいるにちがいないのだ。人もそこをベースにして生きるカタチを創り出さねばならない。

        2022.5.8

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無の累積

 病と別の病との合併症を防ぐために無菌状態の環境に置かれることがある。怪我をしたって絶対安静を強いられることもある。それ自体は致しかたないことである。その後、回復が見込まれる状態になったときに待っているのはリハビリである。自分の力で免疫力を高めたり、機能回復を目指す行為といえる。思うに、生きていく中で我々は、病とは言えないくらいの病にかかったり、大怪我とは言えないほどの怪我をして、その都度リハビリとは言えないけれども、回復・改善することをささやかながらも繰り返し続けている。それはある意味自然なことであり、大切な営みでもあろう。
 AIは必ずや正解を導くものであるという幻想を人々に植え付け、それを利用して進む世の様はあまりに滑稽である。若者が「ネタばれ」を容認する方向性にあるところにそれは見て取れる。結果が解れば、安心できる。でないと、どうなるかわからないことにはらはらしたり、不安を覚えたりするため、貴重な時間を無駄にすることになるからだ。繋がりや伏線、実感という感覚はもはや必要はなく、答えが解ればそれでいいらしい。時短と合理性こそがトレンド。答えに辿り着く必要最小限のものだけあればいいのだ。極端な言い方をしてしまったが、方向性としては間違いなくそのながれにあろう。
 Aであれば、A’を選択する。BであるときはB’を選択するという決まりきったこととして隙間なく理論で埋め尽くしていくことが彼らの面倒くさくないと思える処世術なのかもしれない。悩むという無駄な行為を人生というビジネスシーン全般で行わないようにしているかに見える。煩わしく思えるところは、AIや機器や他人が請け負ってくれるならすべて任してしまおうとする志向だ。バーチャルリアリティで堪能できるならそれがGoalでそれでよしとするかのようだ。言いかえると、おいしいとこだけにしてつまみ食いし、負のところは、代行者に任せるのが現代社会の在り方だと感じてしまう。
 多忙ゆえにいちいち細かいところにこだわってはいられないのはわかる。今回の知床観光船事故について橋本氏がテレビで言っていた。行政の監視指導体系を強化し、事故を起こさせないようにしなければならない。全ての杜撰な違反を検挙するには、マンパワーが足りない。だからこそAIやITでシステムとして管理規定や運営義務を統一明確化していく。それでも全ての杜撰な状況を挙げられないが、抜き打ちで行う交通違反取締のようにサンプルを検挙する形でもチェックする機能を国や地方行政が持たない限りダメだと。
 負の方面の(悪いとされるところを是正する)対策としてルールが次から次へと産み出されていく。その全てを人が施行するのは無理であるから、AIを使ってでもサンプル検査化するでも合理的に判別し、人々に流布できる形にするべく進んでいるのだ。法を設けたから行政の責任がなくなるわけではないのだが、粛々とその方向へ向かうであろう。

 無限に膨張し積み上げんとする管理規定。それを謀る無の累積。安全にまさる人生の正しき生き方は無いのか? 安全=平和 とするなら、平和を掌る国際法とて掌握できない現代が浮き彫りにされる。大人だから、間違いを繰り返すことのないよう、きまりという機構を作っていくのが当然の考え方だ。そうかもしれないが、子供がないがしろになっているのは否めない。大人であることを望まれる世の中にあって、感情を抑制・制御することなく子供の心を持って生きる術を無にしてはならないと思う。なぜなら、大人ぶった論理至上主義に陥っているからだ。多様性を推奨しながら少数派を排除する現代。そのシステムの中にある論理はご都合主義にすぎない。なにか無意味なものに目を奪わされている気がしてならない。

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日本庭園

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都合という呪縛 part 2

 ウクライナ東部に傀儡政権を建てるべくロシアは目論む。それがプーチンの都合なのだろう。何とひどいことではないかと思われるだろうが、人類はこれまでに己の都合にとらわれないようにするワクチンを生成してこなかった。
 かつての日本が、ラストエンペラーで知られる清朝末裔愛新覚羅溥儀をたて、満州国という傀儡国家を設立させたことからもわかるとおりである。
 大航海時代に遡れば、植民地と称して、先住民を排除しながら奪いつくし自国のものとしてきた。移植者によって開拓され、経済的に開発していった土地が植民地なのだからいいのではないか。と思う方もいるだろうが、このとき、宗主国(統治国)の権力者のみならず、その国にいる庶民でさえ、先住民の生活や思いを顧みることはない。自分たちにとって都合のいい新天地として胸躍らせる有様なのである。植民地とは本国にいるものから見れば、聞こえのよい言葉であるかもしれぬが、立場をかえれば、なんと一方的な恣意的なものであると憤りも覚えよう。
 現代社会においては、国連総会決議(1960.12.14 植民地独立付与宣言)もあり、植民地化は難しいものの、先住者を排除し、焦土化させ、新たに本国から人を送り傀儡政権を模索する手法は残っているかに見える。
 そんな様子がロシアのウクライナ侵攻に見て取れるのである。

 さて傀儡政権とか傀儡国家という中にある傀儡(かいらい)という言葉であるが、「あやつり人形」つまり「でく(でくのぼう)」ということである。魯迅の「故郷」の中で出てきたルントウを称した「でくのぼうのような人間」。ルントウの場合は貧しく疲弊し、打ちひしがれて心が麻痺して(反応しなくなって)しまった状態を表しているのであり、狭義では異なる。しかし、権力者からすれば、心が麻痺して何も感じ(考え)られなくなろうが、自分を恐れて逆らわず意図的に従おうが、自分の意のままに操られてくれるならばかわりはないのだ。プロパガンダという常備薬に負けないワクチンを人類は己の中に時間をかけて生成していかなければならない。いつ終わるか分からぬコロナ状勢と相まって、ウクライナの昨今を想う次第である。

 誰の都合で物事を見ているのか、権力のある者がそれを顕わにしたときに悲劇がおこる。その歴史の繰り返しなのである。本質を支える柱を麻痺することなく築いていこう。

2022.4.19

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都合という呪縛

        「白髪レガシーVol.72」からの抜粋

人の弱さは、最終的には自分の都合を最優先するところである。
己の都合と直面した時どんなに尊き論理でも消し払ってしまい、言い訳となる詭弁の口実を模索することになる。このとき、自分が置かれている立場での都合を優先するため、他人の立場は二の次となり、想像すらしなくなることも多い。
大国は法規による報道規制をかけ、侵略と呼ばせず、ネオナチによるテロの排除と唱える。朋友国を守るという大儀をかませて、戦乱に苦しむ現地の人々を案ずるかのふるまいはするが、その実、現地の人々の都合を顧みる気持ちは全くない。ポーズだけとって、己の思惑へと流し込む算段なのだろう。それは「人がゴミのようだ」という台詞を吐いた天空の城ラピュタのムスカのごとく、西側諸国やそれと協力している国内の者を「くずどもと裏切り者」と侮蔑(ぶべつ)する大国の雄の姿に裏付けられよう。
あからさまに見て取れることであっても、それを是とする空気を醸しだし、さらに増幅せんとする。シリア内戦やチェチェン紛争で用いた戦法が国際社会で容認されたかの勢いである。国際社会も黙許してきてしまったツケをここでくらう。
思惑やら都合の悪しきところは黙許されることを約束顔でいることだ。それが国際社会の暗黙の了解とでもいうのか。

世界情勢の話と思いきや、いつの間にか当然のように成り上がった定説というものも同じく一般の人の生活や精神をむしばむ。プロパガンダによる洗脳とまではいかないが、コロナ禍にあっては「自粛警察」といわれた存在がそのよい例であろう。自粛要請に応じない個人や商店に対して、偏った正義感から、私的に取り締まりや攻撃を行うのだ。自分はいいことをしているというお墨付きを得たかのように。

核の脅威に対抗するため、世界はその抑止力として核を保有する。一般の人(庶民)にとっては、「戦争に巻き込まれたくない」「戦争で苦しみたくない」「戦争で死にたくない」というのが誰しもが懐く普通の感情であり、核などというものは論外で、無い方がいいにきまっている。
悪いささやきが聞こえる。「核を持たないと核でたたかれるリスクが高まるよ。それでもいいの。やられてもいいの。」と。一般人も「どちらにしても核に脅えて生きることにかわりはないのならば、せめて反撃できるだけの抑止力という名の核攻撃ができるほうがいいのかもしれない」と人々の思考を誘引していく。これが現在の図式。この恐怖によってある方向へと人の思考を流し込む。まさにこれこそが核の脅威である。これを分析すると、「理想としては核はなくしていくことが是」「自分の都合と照らし合わせると核保有もやむなし」となってしまう。われわれは何時も自分の都合につけ込まれる形で、その利己的なレベルで思考するメソッドへと落とし込まれていく。核だけでなく、多くのものが
この情けない呪縛の中にある。
「そうはいっても理想で食っていけるのか」「働き口が無くなってもいいのか」「家族を養っていけるのか」「豊かな生活が失われてもいいのか」「不便に耐えられるのか」「損してもいいのか」‥‥‥。
経済軍の脅しにも似た呪縛の声を聞きながら人々の生活の今がある。自分の都合と強制的にすり合わされて判断を迫られる。ずるくもやましい慣例なのである。

歪んだ社会が矯正される前に次の歪みを産み出してしまうスパイラルにあって、人が本当に信じるべきものとは何か? それは欲にまみれる前の正しさであり美しさであろう。潜在的に有している人の正義感であり愛でもあろう。どんなに無機質な機械化された正当性を高めた理論やシステムであっても、生きていく中で、己の感情とそぐわぬものを感じた時、人は叫びをあげるのだ。「これは何か違うぞ」と。だから詩も歌も小説もなくなりはしない。文学がなくなることはないのだ。警鐘を鳴らし続けるのだ。ただ、気になるのは、世間が少年少女に感ずる心を持たせなく進んでいることだ。現在の学生はおとなしい。従順でもある。半面、自分の思いや考えを表現することに自信がないともいえる。思ったところで考えたところでどうにもならないとあきらめに似たものがうずまいているのだろう。あきらめることのない諦観*の姿勢で模索して、自分の感情とすり合わせていってほしいと強く願う。

2022.3.21

*諦観 「あきらめて見る」の意ではありません。「本質をはっきりと見極める」という意味で「あきらめる」にかけて用いたものです。

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いつ終わるのでしょう?

 新年度に入って、プー太郎(プーチンではないですよ)として、自由を謳歌しています。といいたいところですが、健康保険は国民健康保険に切り替えられたものの、年金の決定通知が来なく、今のところ無職・無収入のため、かみさんに毎日叩かれている有様です。あは^^

 ウクライナ侵攻、コロナ状勢、いつ終わるのでしょうか? 先の見えない不安というか、いつまで続くのかという不安が、現代社会を覆っているようで、このどうしようもない空気にのまれ、大事なものまでおろそかにしていかないかと、さらなる不安が押し寄せてきます。

 焦土と化し、人は住めなくなり、立ち去るほかない方向へと持ち込み、実効支配して領土を確保せんとする。

 相次ぐコロナの変異株感染拡大と蔓延防止のいたちごっこ。

 共通するのは、その悲劇の度合いを述べるとき、その尺度として用いるのが経済なのです。経済を人質にして、さらなる深き闇へと迷い込ませる。敵か味方かとか民主国家か権勢国家かとか資本主義か社会主義かとは関係なく、傍観者にあたる者が惨劇がもたらす経済的損益や物価の高騰という点で悲劇を測るところにあるのです。

 止まらないドミノ倒しの状態は、多方面にわたります。原油調達のほそりから原油価格高騰、電力不足から計画停電も模索されています。原発再稼働もささやかれており、資源の不足からくる影響があるべき姿でない方へと進む連鎖をおこしているのです。

 資源や食材を貿易に頼らざるを得ないわが国が、外貨を得るために力を入れたのが観光だったのでしょう。しかしコロナの影響で、立ち行かないものとなってしまいました。

 あぶく銭をもとめる姿勢を改め、地に足をつけ自給自足の基盤を拡げていくことが望まれると思います。戦争・疫病・自然災害、何が起こるか分からない中で、自力をつけることこそが我が国だけでなく世界の国々が見据えるべき方向性だと思います。安いならそっちに頼ろうとか、うまく利用しようといった下衆な考えに陥らず、生活の基盤を財力に傾倒することなく本質を見て生きることが求められます。

 

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